第四章(三方ヶ原の戦い)‐二
信玄には、浜松において家康とその群臣が交わした軍議の模様が目に浮かぶようであった。
信玄にとって、家康が城外戦を挑んで来ようが籠城戦に徹しようが、どちらでもよかった。家康が浜松籠城を選択するというのなら強いてそれを包囲する必要はなかった。支城群に分散配置された敵勢を各個撃破し、支城から締め上げていけば浜松の陥落は時間の問題であろうし、いずれかの支城を包囲中に家康が後詰の一戦を挑んできたとすれば、それこそ信玄の思う壺であった。
また果敢にも家康が城外戦を選択した場合、劣勢な敵勢を野戦で撃破することは容易であった。敵野戦軍の撃破が成れば、家康本隊による支城の後詰はより一層困難なものになるに違いなかった。家康が危惧したように、信玄の破竹の進撃の前に、三遠の国衆は雪崩を打って武田に靡く可能性があった。このとき徳川は、文字どおり存亡の危機にあったのである。
十二月二十二日、信玄は予定どおり浜松城を包囲することなくこれを素通りする進路を選択したが、進軍する軍役衆に対しては
「火縄に着火し、火を絶やさないこと」
「こぶし大の
「
「各
などと、あたかも合戦の最中のような命令が下されたのであった。
甲軍が
俄に
「
と、
思えば信玄が信濃制圧の軍兵を起こして既に三十余年の歳月が流れていた。
その間、甲信上州の軍役衆は、常に
台地とはいえ、遠州平野のなだらかな坂を駆け上がるなど彼等にとって造作もないことであった。甲軍は今や、信玄と共に幾多の戦場を駆け巡り、その軍略を体現する日本最強の兵に鍛え上げられていた。
そしてもはや信玄は、諸将に対し事細かに陣立てを
信玄は病身ながら本陣に構え、自らが今日のために鍛えに鍛え上げた将兵の勇姿を見渡した。そこに整然と列を成して居並ぶ軍勢は、三十年前、今は亡き山本勘助をして「蟻の群れ」と評された
信玄の目は既に、本戦における圧倒的勝利を確信していた。
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