第四章(三方ヶ原の戦い)‐三

  驚愕したのは放った物見から甲軍の陣容を聞いた家康である。

「なんと。甲軍は祝田の坂を下ったのではないのか」

「左様見受けましたが俄に取って返し、今や三方ヶ原台地の上に魚鱗の陣を敷いて待ち構えてございます」

 家康は半信半疑で

「そんなはずはあるまい」

 と馬廻衆に言った。

 坂を下ったはずの甲軍が三方ヶ原台地上に布陣しているという話も驚きながら、徳川勢に数で優る甲軍か魚鱗の陣を敷いているというのも驚きだった。元来魚鱗とは、少数の軍が優勢な敵の一点に圧力を集中させて切り裂くための陣形だったからである。

 馬上にあってしばし考え込んだ家康は誰に語るでもなく

「信玄は、この家康の頸一つを狙っておる」

 と青ざめた顔で呟いた後、一瞬

退くか)

 と考えた。

 そもそも浜松籠城を唱える諸将を抑えて城外戦に討って出てきたのは、甲軍がこぞって祝田の坂を下ろうとしていたからであった。坂を駆け下る勢いを利して、後尾を見せる甲軍を痛撃し、疾風の如く戦域を離脱する以外に勝ち目はないと考え出張ってきたものであったが、その甲軍が既に魚鱗に構え自分達を待ち受けているというのである。もはや彼我の高低差による利は失われた。

 一撃離脱の戦術を土壇場で覆し、不用意に思いつきで退却を下知した場合、どうなるであろうか。

 よほど慎重に兵を返さなければ臆病風に吹かれた全軍が恐慌に覆われるであろう。潰乱は必至である。信玄がその隙を見逃すはずはない。一気に前進の采配を振るうだろう。

 自分を助けようとする者は次々討たれ、或いは逃げ散り、一人になった家康の背後を、幾筋もの鑓の穂先が追い掛けてくるに違いなかった。そのうちの一筋が、左右の肩甲骨の間から自分の体内に入り込み、赤黒い血に塗れた鑓の穂先が胸元から突き出て覗く悪夢のような情景が、家康の目には見えた。

 家康は、現実ではない痛みを背中に感じながら、先陣の石川数正隊に対して

「武田勢から如何なる挑発を受けても、決して陣を動かしてはならん」

 と急ぎ伝令を飛ばし、その他諸隊に対しては

「鶴翼に開いて心静かに下知を待て」

 と伝令した。

 時節は真冬であった。まもなく日没を迎えるころである。雪がちらついてきた。

(暗がりと降雪を利用して陣形を保ったままじりじりと退いたならば或いは・・・・・・)

 家康は甲軍との乱戦を回避する方途について考えを巡らせていた。


 行軍の列の最後尾から、途端に先陣に位置することとなった小山田信茂は、徳川先陣石川数正が陣を鎮めて打ち掛かってくる様子がない様を見て

「石礫を投擲せよ」

 と麾下将兵に号令した。

 郡内衆は白い襷に包んだこぶし大の石礫を石川数正隊に向かって次々と投擲し始めた。これらが着弾した石川数正隊陣中では、石礫に叩かれて負傷者が多数出た。

「矢弾を射かけてから戦を始めるのが作法であろう。それを、石礫とは」

 家康の下知を守り、それまで陣容を動かさなかった石川数正隊が俄に浮き足立った。

「もはや我慢ならん」

 一部の兵が突出した。数正は慌てて

「あれは信玄の挑発だ。陣を構えてただひたすら堪えよ」

 と呼ばわったが、怒りにまかせて小山田勢に打ち掛かった兵を自陣に回収するため飛ばした馬廻衆も、そのまま郡内衆の陣中目がけ突きかかってゆく有様であった。既に先陣は郡内衆と激しく干戈を交えていた。

 郡内衆は怒りにまかせて突出する石川数正隊に押され後退し始めた。数正はその様子を見て、

(もはや兵を陣所に戻すこと能わず。かくなる上は勢いに任せ突出するの他なし)

 と考え、全軍突撃を命じた。


「石川数正殿、小山田勢を押しております」

 突然前線から沸き立った鬨の声に耳をそばだてる家康の許に、戦況を伝える伝令が飛んできた。この報せは、固く陣所を守り撤退の機を窺っていた家康にとって想定外のものであった。

「何故下知を守らぬか!」

 家康は怒号してが、始まってしまった合戦を止める手立てはない。突出した先陣に安易な撤退命令を下しても敵勢に付け入られて猛追されるだけである。そうなれば先陣の石川隊どころか全軍が一瞬にして撃砕されてしまうに違いなかった。

 ことここに至り、家康に残されたのは

「総掛かりせよ」

 の一手以外になかった。

 家康は渋々ながら前進の采配を振るった。

 総掛かりの采配を得た徳川勢は、石川隊に続いて本多忠真、松平家忠などが甲軍右翼山県三郎兵衛尉昌景率いる赤備あかぞなえに打ち掛かった。酒井忠次は左翼の内藤修理亮昌秀隊に猛攻を仕掛ける。

 家康は本陣において観戦しながら、領内を荒らし回られる様を指を咥えて眺めるだけだった麾下将兵がこのときをおいて他にないとばかりに勇戦奮闘する様を見て

「勝機なきにしもあらず」

 と一種の手応えを感じていた。

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