第三章(兵部変心)‐一
虎昌は、夜半に義信が自邸を来訪した意味について瞬時に理解した。そして、義信自身の口から語られるであろう彼の決意と、自分に対する依頼を如何にして躱そうかと考える時間を稼ぐため、小者の口から
「
と義信に伝言したが、虎昌の苦悩を知らない如何にも
「御曹司は、正装は無用、と仰せです」
と義信の意向をそのまま虎昌に伝えた。虎昌はそのため、時間稼ぎもならず考えがまとまらないうちに義信を上座に
上座に座る義信の顔は青ざめていた。暗い灯火のせいではない。その表情飽くまで硬く、口は真一文字に結ばれている。胸の奥に秘めた決意が不意に口を衝いて外に漏れ出すことを必死に抑えているように、虎昌には見えた。
「夜半にすまぬ」
義信が第一声を発した。その後が続かず、沈黙が流れる。
「わしには近頃の父上のやりようが理解出来ん」
義信がようやく口を開いた。
この言葉自体は今まで何度か虎昌には投げかけられたものではあったが、こんな夜半に、密かに国主批判を口にする意味が理解できない虎昌ではなかった。
(御曹司の決意は固い。来るべき時が来たのか)
虎昌は、義信の決意が相当に固く、これを鈍らせる効果は殆どないであろうことを自覚しながら、義信に対して
「その話はまた、日を改めてお伺いいたします」
とはぐらかした。
だが堰を切った義信の口は、語るを止めなかった。
「兵部、そなたはわしが幼き頃より、この乱世を正すためには義に拠るほかないと語って聞かせてくれたな。そして、その新しい時代を築いていくのは御曹司、つまり我等の世代の仕事である、と」
先刻まで青ざめていた義信の顔に、うっすら赤みが差し始めていた。
「権謀術数を尽くして天下に覇を唱えようとも、正しき行いを知らず
「確かに左様申し上げました。
まさかこんな夜半に、そのような思い出話をするためにお越しでしょうか」
虎昌は
「聞け兵部。近頃父上は、我が武田家と共存の間柄にある今川家を軽んずのみならず、駿河に対し侵略の食指を動かしてすらおる。父上のそのようなやりようを放置すれば、我が武田家の発展を支えてきた三国同盟は瓦解し、やがては我が身を滅ぼすことに繋がるであろう」
虎昌は、義信を沈黙させる有効な手段を何ら持ちあわせてはいなかった。その意味では自分は、時間稼ぎもろくに出来なかったあの朴念仁となにも変わりがない、と心中自嘲し、そしてすぐに
(御曹司が如何に仰せであれ、自分が縦に首を振りさえしなければ良いだけの話だ)
と開き直った。
虎昌は義信の口から流れ出る言葉をまるで念仏か何かのように聞き流しながら、不意に、晴信から嫡子義信の
「余は、新しい時代を切り拓くためにこの手を血に染めるつもりだ。小国甲斐が大を成すためには権謀術数の限りを尽くしてでも勝ち続けなければならん。避けては通れぬ道ながら、余はいずれその報いを受けることになろう。
そして、その後に来る新しい時代を、太郎は汚れなき手によって治めるのだ。この子を強く、正しく育て上げて欲しい」
虎昌は世嗣の傅役に任じられたときの晴信の言葉を、今でも一言一句過たず記憶していた。あの時の、全身が痺れるような感動を原動力にして、虎昌は今日まで義信に仕えてきた。以来虎昌は、義信を他の庶子とは一線を画する存在なのだと自覚させるように育ててきた。先代信虎が一族間の内訌を戦い抜いてきた歴史を、虎昌は身をもって知っていたからだ。
血を分けた兄弟とはいえ、否、血を分けた兄弟だからこそ、惣領にとっては危険であるということを虎昌は経験的に知っていた。八幡原において兄信玄を守るため戦死した典厩信繁など稀有な例である。そのような存在をあてにするというわけにはいかない。
自分が特別な存在であることを義信が自覚するにつれ、家中には義信を中心に据える
(こんなはずではなかった)
義信の、父信玄に対する政策批判を聞きながら、虎昌は後悔の中に身を置いていた。
物思いに
「兵部、したがってわしは、父上を除くことに決め・・・・・・」
決定的なひと言を義信が口にする寸前で、虎昌は我に返った。そして、義信に対して吼えるように言った。
「御曹司なりません、それだけはなりませんぞ!」
義信は虎昌の
次に義信が顔を上げたときには、その顔色はすっかり赤みを失って、青ざめたそれに戻っていた。
そして、無理矢理笑顔を作りながら
「分かった。また来る」
と虎昌に別れを告げた。
虎昌邸を後にするとき、義信は
「痩せたな兵部。最後にもう一度、その手を貸して欲しい。そのときまではくれぐれも自愛を」
と告げて、虎昌の手を取ったのであった。
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