第三章(遠州忩劇と三河錯乱)‐三

 義信がかかる情勢を見極め、妻子との婦人の情を捨て、武田の後継者としての将器を見せるかどうか、信玄は確信を持つことが出来なかった。なので義信に対今川外交について諮るに際し、信玄は仮定の話として慎重に切り出した。

「仮の話ではあるが義信。氏真殿が遠州諸将の叛乱を鎮圧できなければなんとする」

 信玄に問われた義信の顔に赤みが差した。興奮の兆候を示す義信の無意識の癖であった。仮の話だと前置きしたにも関わらず、そのようなことを仮定することすら許されないのだという義信の内心の興奮を示していた。

「氏真公は必ずや仕置しおきを完遂なさるでしょう」

 この義信の回答に接して、信玄は困惑せざるを得なかった。

 信玄は武田の将来に関わる外交方針について、後継者たる太郎義信に諮ったのである。義信個人の願望を訊ねたのではない。

 困惑する信玄に対し、義信は続けた。

「父上は今川に楯突いた遠州諸将に書状を送付されたそうですが、この話はまことでしょうか」

「確かに送った」

 信玄は動じることなく言ってのけた。不測の事態に備えてあらゆる選択肢を視野に入れておくことが、国主として悪いことだとはどうしても思われなかったからである。

 だが義信は咎めるような口調で信玄を追及し始めた。

「今川に楯突くような連中に、一体何用があって書状を遣わされたか」

「謀叛に至った経緯を知るためだ」

「知って何となさる」

「氏真殿が当家に調停を依頼してきた場合を考えてのことである」

 信玄は心にもない嘘をいた。

 それと同時に、義信に対今川外交を諮問したことに後悔を感じ始めていた。義信がこうまで頑なだとは思ってもみなかったのである。

 義信が信玄の回答に承服するはずがなかった。

「斯くの如き不用意な書状の発出は叛逆者を勢いづかせるだけです。それが分からぬ父上ではございますまい」

 義信の指摘は図星であった。真意を衝かれた信玄に焦りが生じ始めていた。

「考えすぎだ義信。先ほど申したとおり調停に備えてのことで、他意はない」

 と弁明を試みたが、義信に納得の様子はない。なおも信玄を追及する義信に対し、黙って聞いていた信玄の鬱憤は極みに達した。

 世を挙げて下剋上の様相を呈する昨今、隣国の騒擾そうじょうを手をこまねいて傍観しておれば、自国の利益を損ないかねない。

 義信が言うように、一途いちずに縁戚に当たる今川家を支援するのが武田家の守るべき道義というものであろう。だがそれは個人の立場としては間違いではないが、既に信玄も義信も否応なく個人を超越した立場に立たされているのである。かかる立場に立って、この問題を判断しなければならないのである。道徳的判断を下してさえおれば国家の利益に直結する、というのなら話は簡単であった。

(なぜそのことが分からんのか )

 ひととおり信玄を詰った義信の言葉が止んだとき、信玄は問うた。

「ひとつ訊くが、その方誰の子だ」

 それは義信の諸々の詰問に対するこたえではなかった。

 なかったが、信玄が義信に対し、言外にではあるが今川領侵攻の意図があることを暴露した瞬間であった。

(今川領侵攻はやむを得ないことだ。武田の後継者であれば、そのことが理解できるはずだ)

 信玄は義信に対し言外にそう言って、義信に後継者としての決意の程を訊ねたのである。

 だが義信は

「誰の子か」

 と問うた信玄の意図を測りかねたのか、黙して返さなかった。

「その方は誰の子で、いずれの家の後継者か」

 信玄は重ねて問うた。義信の表情が従前にもまして強張る。信玄の言葉の意味がようやく理解できたのであろう。

 義信は意を決したように

「私は甲斐源氏武田家の後継者にして、准三管領太郎義信。氏真公を兄弟とする者です」

 というや、信玄が止めるのもきかず憤然として席を立ち、何処かへと去ってしまったのであった。

 信玄はしばらく座したまま身じろぎもしなかった。義信が今川との同盟をこれほどまでに重視してこだわっているとは思っていなかったのだ。

 誰の子かと問われた義信の口から、氏真は兄弟だというこたえが出てくると信玄は考えていなかった。衝撃は大きかった。

 呆然として自失する信玄は不意に後ろを振り返った。

 国主父子の激しい応酬を間近に見ていた信玄近習三枝さえぐさ勘解由かげゆの顔色は青ざめていた。

 信玄は青ざめた勘解由の顔を見ていった。

「どうした。具合でも悪いのか」

「いえ、そうではありませんが・・・・・・」

「左様か・・・・・・」

 信玄はすっかり覇気の失せた声でそう呟くと、奥の書斎へと引っ込んでしまったのであった。

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