終章(二)

 だが甲軍の撤退を誰よりも不審に思ったのは、それを最も喜ぶべき立場にあった織田信長その人であった。

 もし自分を信玄の立場に比定して考えた場合、今この時期に撤退することは信長にとって有り得ない話であった。

 信玄が信長を盛んに挑発して戦場に引き摺り出そうと試みたのは、それを実現できれば信長を東西から挟撃し、滅亡に追い込むことが可能だったからに他ならない。

 信長は最後まで諦めることなく状況が好転するのを待って、信玄による数々の挑発行為にもじっと耐えた。耐え抜いて、遂に甲軍は信長の望みどおり撤退したのである。

 自らの希望が叶ったことは良い。願ったり叶ったりだ。ではその撤退の理由は何かと信長は考えた。考えた結果、

「信玄が死んだ」

 ということ以外に、甲軍撤退の合理的理由が見当たらなかった。

 信長は徳川家康に武田分国への出兵を要請した。武田からの反撃の強度を見定めようとしたのである。家康は信玄死去の風聞に確信が持てない状況下、信長に命じられるまま遠江国井伊谷、駿河等への侵攻を開始した。

 信玄が存命であれば、その統制を恐れる籠城衆の抵抗は熾烈を極め、信玄本人若しくはその命を受けた武田重臣が後詰の軍を引率して出現するはずであった。だがそれがない。籠城衆の抵抗も全くないか、あっても挨拶程度のものであった。

 家康は拍子抜けするとともに、

「やはり信玄死去の風聞は事実である」

 と断じて信長に報じた。

 城方からの抵抗が殆どなかったということは、籠城の武田在番衆が本国甲斐から

「後詰は出せないので、攻められたら開城して退去せよ」

 と申し含められていたからとしか考えられなかった。

 家康からの報せは信長に確信を抱かせた。

 やはり信玄は死んだのだ。

 確信した信長の反撃は急であった。

 信長が先ず標的にしたのは槇島に籠城する将軍義昭であった。

 自身に対する包囲網を裏で操っていた義昭を、信長は京都から追放した。このため永禄年中以来の将軍不在京の状況がまたも現出した。義昭は中国地方十箇国の太守毛利輝元を頼ってその勢力下にあった安芸鞆の浦に逐電を余儀なくされた。

 余談ではあるが、信玄上洛を機に反信長に転じた義昭はこの後もしぶとく打倒信長を企図して鞆の浦から各勢力に御内書を発給し廻っている。彼が征夷大将軍職を退くのは、信長横死後六年を経てのことであった。


 将軍相伴衆しょうばんしゅうとして在京奉公していた武田信虎は、将軍義昭の密命を帯びて近江で六角遺臣を糾合し、対信長の兵を挙げようと企てていた。

 曾て自分を甲斐国守の座から放逐した信玄が上洛してくると聞いて、信虎がどのような感慨を抱いたものか、それを推し量る文書類の一切は今日まで伝えられていない。

 瀬田において三十余年ぶりの父子再会を心待ちにしていたかもしれないし、刺し違えるつもりだったのかもしれない。

 いずれにしても信玄死没によって父子再会が果たされる機会は永久に失われ、信虎の蠢動しゅんどうも霧消している。

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