第三章(兵部切腹)‐三

 武藤喜兵衛は虎昌邸宅の門前に到着するや

「武藤喜兵衛、主命により謀叛人飯冨兵部少輔虎昌捕縛に参上した。開門せよ!」

 と呼ばわった。

 門内から矢弾を射かけられた場合、喜兵衛はその第一撃を甘受しなければならない場所に位置していた。

 信君に対し、

「兵部は討って出てくることも籠城することもない」

 という信玄の言葉を伝えた喜兵衛であったが、いざその場に立つと死を覚悟せざるを得なかった。なぜならば追捕ついぶの侍衆は喜兵衛が討たれたのを合図として速やかに反撃に転じられるよう、邸宅から少し距離を置いて備えているからであった。喜兵衛一人に限って言った場合、援軍はなきに等しかった。

 喜兵衛の呼びかけにより、虎昌の邸宅が開門した。そこにいたのは死装束に身を包んだ、如何にも朴念仁ぼくねんじん然とした小者こもの一人であった。直前まで極度の緊張に見舞われていた喜兵衛は拍子抜けした。朴念仁はがたがたと震えながら言った。

あるじは、邸宅の庭に座して皆様の到着を待っております」

 喜兵衛と信君が踏み込むと、邸内は清掃が行き届いており塵ひとつ見当たらない。

 巡検して廻っていると広間に兵部夫人と思しき年配の女性とその侍女が突っ伏しているのを発見した。短刀を口に含んで伏したものか、粘度強く黒ずんだ血が、どろりと川のような流れを成している。

 砂利が敷き詰められ、しかも手入れが行き届いた庭を見ると、そこには死装束を着た飯冨兵部少輔虎昌その人が座していたのであった。

 信君が

「穴山左衛門大夫信君並びに武藤喜兵衛、謀反のかどにより飯冨兵部少輔虎昌を捕縛しに参上した。大人しくばくに就かれよ」

 そう型どおり言った後、

「兵部殿、なにゆえこのような挙に及ばれたか」

 と問うと、兵部は

「今川との手切れのことでござる」

 とのみ口にして多くを語らなかった。

 そもそも虎昌自身、謀叛など夢想だにしておらず、多くを語ればボロが出て義信に累が及ぶと考えてのことであった。

「御屋形様は、兵部に申し開きの儀があるならば捕縛して連行せよと仰せであるが、御自害の御覚悟か」

 信君が重ねて問うと、

「もとよりそのつもりで、申し開きなどござらん。去る夜半、御曹司と謀叛同心衆曾根周防、長坂源五郎が我が邸宅を後にする際、お目付衆と思しき人影を見たときから今日こんにちあることを予見し覚悟していたもので、爾来じらいくの如き装束に身を包み、愚妻にも自害を促して追捕の使者をお待ち申し上げていたのだ。遅うござったぞ」

 虎昌はよどみなく応じた後、穴山信君と武藤喜兵衛に対し、

「それがしは謀叛人としてここに果てるが、追捕衆より御屋形様にお伝え願いたい」

 と前置きして

此度こたびの謀叛は全てこの飯冨兵部と、曾根周防、長坂源五郎等が企てたもの。これらの軽輩を頼みにしたのがそもそもの誤りであった。我等は御曹司を担ぎ上げる肚であったが、御曹司は謀叛の企てなどつゆ知らず、と」

 と言うと、追捕衆が止めるいとまもなく諸肌脱いで、あっという間に脇差わきざしを自らの腹に突き立てた。

 武藤喜兵衛は広間から庭に降り立つと、太刀を抜いて虎昌の左後方に立った。介錯するつもりなのだ。

「無用だ」

 虎昌は苦痛に顔を歪ませながらもこれを断り、二人は血の海の中に悶絶する飯冨兵部の最後を見届けたのであった。


 時に永禄八年(一五六五)十月十五日、義信にかけられた謀叛の嫌疑を一身に背負って、飯冨兵部は自害して果てた。

 信玄は追捕衆より兵部自害の一部始終を聞いてその死を惜しんだ。


 なお、飯冨兵部の弟にして信玄に謀叛の第一報を報せた飯冨三郎兵衛尉昌景は、事件後信玄より甲斐名族山県やまがた氏を与えられ、山県三郎兵衛尉昌景を名乗ることとなる。

「謀叛人と同姓ではやりにくかろう」

 という、信玄の配慮によるものであった。

 昌景は涙ながらにこれを拝領した。

(俺は果報者だ)

 昌景の脳裡には、自分に累が及ばぬよう一身に罪を背負って死んでった兄のことがあった。

 先年、砥石崩れの大敗の際に殿軍しんがりを努めて戦死した横田備中守高松たかとしの遺訓も依然昌景の胸中に生きていた。

 昌景を取り巻いたこれらの人々によって、彼の内に主家に対する無私の忠誠心が涵養かんようされたことは想像に難くない。

 生来非力で武威の人ではなかった昌景が、後世に残る武名を轟かせたのは、彼を取り巻いた主君や兄、歴戦の老将に恵まれ、その教えをよく守ったからに違いないのである。

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