第二章(砥石城陥落)

 砥石城攻めの甲軍が大いに敗れたことは、中信を失陥した小笠原長時を勇気づけた。長時は早速村上義清から兵三〇〇〇を借り受け梓川氷室に陣取ると、旧主を慕って参集した小笠原家臣団を糾合しその数は四〇〇〇を数えるまでに膨らんだ。武田方は飯冨兵部少輔虎昌を迎撃に出したが野々宮において敗退している。晴信は砥石崩れの傷手も癒えぬまま軍役衆一万を引率して甲府を発した。

 野々宮で中信回復に幸先の良い戦勝を飾った長時であったが、晴信出陣により風向きが一変する。一万もの軍勢を調ととのえた武田に対し、勝ち目なしとみた村上衆が長時に断りなく陣所を離れ、自領へと帰還したのである。

 長時は 

「この上は野々宮戦勝を今生こんじょうの思い出として華々しく討死うちじにせん。我より先に行く者あるまじ」

 と麾下の諸将に対して宣言し、自ら鑓を振るって甲軍中へと果敢に討ち入った。

 そもそも長時は衆を恃んで軍略をする人ではない。武勇の人である。死を覚悟しての突出は甲軍先陣を大いに蹂躙し、自身甲軍のうち、名のある侍衆十八騎を討ち取って後退させた。その戦いは、長時自身が思い定めたとおり死を恐れない玉砕戦であった。

 塩尻や林城における戦いなど、甲軍との戦に及んで常にその引き立て役にまわってきた長時が、信濃守護職としての意地を見せた最後の光芒こうぼうであった。長時は斬死きりじにを望んでなおも前進をと息巻いたが、重臣二木重高は

「御大将たるもの、むやみに斬死を望むものではありません」

 と諫言し、自領の中塔城への退去を勧めた。二木が籠城を勧めただけあって中塔は堅城であった。周囲に付城つけじろを築かれ甲軍の重囲に陥りながらも、半年間は命脈を保った。だが、長時には時代の趨勢を覆す力は残されていなかった。

 さしも堅城も、後詰の見込みがない籠城戦を戦い抜くことは出来ない。籠城衆の不安を見透かしたような武田方の調略を前に、内側から切り崩されてがたがたになった。もはや逆転の見込みなしと悟った長時は中信回復を諦め、遠縁にあたる三好長慶を頼って摂津国に落ち延びたといわれている。頼った先は伊那小笠原氏ともいわれるが、兎も角もその存命中に長時が信濃守護職に復することがなかったことだけは確かである。

 長時遁走と時を同じくして、信濃における趨勢を印象づける出来事があった。

 甲軍を寄せ付けなかったどころか、逆にこれを大破した砥石城が僅か一日で陥落したのである。これは砥石崩れの敗戦に懲りた晴信が、勘助の諫言を容れて真田源太左衛門幸綱に城内の調略を行わせたためであった。これこそが、義清の最も恐れる遣り方であった。

 今日、幸綱が如何にして砥石城を陥落せしめたか詳細は明らかになってはいないが、砥石籠城衆の内に自身の舎弟矢沢頼綱があることを知った幸綱が、その伝手つてを頼って籠城衆を切り崩し、城の内から火を放ったためだとも伝えられている。砥石城陥落の二年後、晴信は嫡子義信と共に「砥石再興のため」と称して出陣していることから、落城に際して修築を必要とする損傷が城郭に生じたことはどうやら間違いなさそうである。

 いずれにしても武田村上の和睦成立以来飽くことなく普請を続け、武田方の猛攻を凌ぎきって見せた砥石城の陥落は、北信における村上方の退勢を強く信濃国衆に印象づけたことであろう。

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