第二章(旭日の如き勢い)

 勢いに乗る武田家中にあって、その波に乗り遅れまいと意気込む若武者がいた。この若武者、春日源五郎と名乗る晴信近習であったが、家中では晴信の寵童ちょうどうとしても知られ

「武勲も立てず御屋形様の覚えめでたいのは、よほど衆道しゅどうの術を心得ているのであろう」

 などと陰口を叩く者も多かった。

 源五郎は元々石和の大百姓春日大隅の子息である。晴信がこれを近習として取り立てたのは、ひとえに家中で権勢を振るっていた板垣駿河守の専横を抑えるべき自らの藩屛を欲したためであった。そのために宿老等家臣団の家中より見所のある子弟を預かり近習として育ててきたものであって、我欲を満たすためではない。要するに晴信は源五郎が秘めたる将としての才気を愛したものであるが、源五郎自身は叩かれる陰口に対して何も抗弁しなかった。

 なにぶん大身とはいえ百姓の子だった自分である。もとより武道の心得もなければ文字すらまともに読み書き出来なかった。晴信に取り立てられ、館に出仕するようになってから、必要に迫られ何とかひととおりの文字を読むことが出来るようにはなったが、幼年のころより書に親しんできた武家に子弟に俄にかなうものではない。それだけに

「武力を鍛えて戦場で手柄を挙げる」

 ということに彼はこだわった。

 したがって安曇野の小岩嶽城を攻めるに際し、参陣を命ぜられた源五郎は発奮し、この戦いで大いに手柄を挙げ、百騎持ちの足軽隊将に任じられている。後には更級郡牧島国人高坂こうさかの名跡を継いで高坂弾正忠昌信と名乗り、平瀬城を陥れた原美濃守虎胤を相備あいぞなえとして北信の守将を勤め上げることとなる。

 兎に角この時期の信州に、武田の快進撃を阻止しうる勢力はなかった。家中においても次世代を担う良将が続々と育っていった。

 この上げ潮の時期に、晴信は嫡子義信の具足召し始めの儀を執り行うと共に、駿河今川家より義元息女於松の方をその妻に迎えたのである。

 義信婚儀にあたり、晴信は躑躅ヶ崎館に新たに「西の御座所」と称して新館しんやかたを建築して、義元息女を迎える準備をしている。自ら御座所普請を検分したと伝わるほどである。晴信は甲駿の同盟強化に相当期待していた。

 塩尻峠の戦勝の折には遠く感じられた帝都への途は、中信支配に道筋をつけた今、晴信にとって夢物語ではなくなっていた。と同時に、その雄図が自身の存命中に果たされるものであると楽観視もしていなかった。

 恐らく自分の生涯は、信州支配と北陸道侵出のための戦いに費やされるであろう。その後、大を成した武田が帝都へ駆け上がり、公儀(将軍家)を支えて天下の政務を執るとなると、次代に任せることになるだろうと考えていた。

 遠方の都へ使者を遣り、公儀に莫大な献金をして嫡男太郎の名に将軍家通字である「義」の字を賜ったのも、また公儀に奏請してその義信に「准三管領」という聞いたこともない職名を賜ったのも、将来の上洛に備えてのことであった。

 そもそも将軍家の執事たる管領職は細川、畠山、斯波の三家に限定されていたが、今や細川京兆家は被官である三好家に打倒されつつある世上であった。畠山、斯波も管領として天下の政務を執ることが出来る往時の勢いはない。

 翻って今を遡ること三十余年前、周防の大内義興が自前の将軍を擁して上洛し、十年にわたり帝都で政務を取り仕切ったことが晴信の頭の中にはあった。大内家は公儀より在京奉公を義務づけられている家柄にはない。その大内が入京したのであるから、本来は在鎌倉を義務づけられている甲斐武田家が上洛して天下の政務を執り行うことが特段不都合なことだとは晴信には思われなかった。 

 公儀に「准三管領」という新たな職名を奏請したのも、義信上洛のあかつきには政務を遅滞なく進めさせるための布石と考えてのことであった。

「自分が果たすことの出来なかったことでも、義信であれば出来る」

 晴信はそう期待して、自分の築いたものの全てを義信に譲り渡すつもりでいたのである。

 

 於松入輿の列は絢爛けんらんたる輝きに満ちていた。駿河から発した人と物の列は、その先導が甲斐国河内郡に達してもなお後尾が依然駿府を出ないほどであったという。見たこともないような煌びやかな行列に、甲斐の人々は目を瞠り、噂は噂を呼んで他国にもその華やかな様子が伝えられた。

 興味本位でこの煌びやかな入輿の列を噂する人々は気楽であったが、対武田の最前線でまさに死闘を繰り広げていた村上義清にとっては神経の磨り減る噂話であった。累年干戈を交えてきた武田が、いよいよ駿河今川家との紐帯を強化して北信に攻め寄せてくるかと思うと、もはやこれに抗する術がないと思い至るようになった。義信婚儀の三ヶ月後には、晴信息女於梅が相模北条氏康嫡子氏政の元に輿入れしている。このことは、晴信が東方と南方に憂いなく、北信攻略に邁進できることを意味して村上義清にとっては死刑宣告に等しいものであった。

 武田の外交政策と自領に対する飽くなき調略を前にして、往年の満々たる闘志は既に義清から喪われてしまったのであった。

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