序章(七)

 晴信は家督相続より当面の間、具体的には一年間は軍を起こさぬ考えであった。連年佐久方面への軍役を課され、疲弊していた国人衆や譜代衆の意向を汲んでのことである。もちろん内外に明言できない政策である。派兵抑制の政策が他国に知れれば

「武田の武威、衰えたり」

 と、この方面における反武田勢力の動きはいよいよ活発となることが明らかな情勢だったからだ。そうなれば佐久における武田の既得権益が脅かされるに違いなかった。

 ことに、国境を接する山内上杉やまのうちうえすぎ諸将の蠢動しゅんどうは佐久方面で活発であった。加えて村上義清、諏方頼重などの信濃諸将も、佐久方面への侵出を企図していた。事実父信虎は先月、利害の一致するこれら信州諸将と連合して佐久方面に出兵して滋野一族を上州に逐ったばかりであった。

 信州諸将と連合して合戦そのものには勝利したが、獲得した領土については三者分割が前提であった。山がちで地力にも乏しい地域である。とかく佐久方面における軍役は、実利の乏しいものであった。

 父信虎は諏方方面における領土拡大を目指さなかったが、なにも最初から諦めていたわけではない。当初は信虎も諏方侵出を企図していたのである。

 諏方湖を擁し肥沃な盆地が広がるこの方面に侵出した方が、利益が大きいことは明らかであった。父は晩年、佐久侵出に固執したが、その由縁は過去に諏方侵出に頓挫した経緯があった。

 向後一年間の外征停止とともに、晴信は信虎が締結した諏方との盟約を如何にして破棄し、諏方へと再侵出するか、考えなければならなかった。

 国内においては、国守交代を麾下諸将に通知しなければならないという問題があった。おそくとも三日のうちには信虎追放に至った経緯と晴信の今後の施政方針を示す必要があった。


 重苦しい評定の後、晴信は母の薙髪の師として招聘した岐秀和尚が儀を終えて寺に還る旨の報告を供廻りから受けたので

「和尚をお招きせよ」

 と慌てて引き留めた。

 間を置かず、和尚は同じ府第敷地内にある晴信居館を訪ねた。晴信は師が座する板の間に降りて、その正面に座した。

「晴信、本日ここに甲斐の国守となりました」

 和尚は塑像そぞうのように座して動じない。

 晴信は続けた。

「父を駿河に逐いました」

 和尚はしわがれた声で

「迷いがあるのかと心配しましたが、無用でした」

 と言った。

 晴信は自分が迷いに迷っているという自覚があったので、

「この晴信に迷いがないと仰せか」

 と意外な面持ちで和尚に訊ねた。

「左様。拙僧にはそのように見えます」

「その所以は」

 しばしの沈黙の後、和尚は晴信に問うた。

「国の基は・・・・・・」

「治水に在り」

 晴信の口を衝いて自然と言葉が継がれた。晴信は自らが発した言葉に驚いた。

 和尚は口許に微笑を含んで言った。

「やはり、拙僧の見立てに誤りはございませなんだ」

 和尚はそう告げた後、ではそろそろ、と腰を上げ、帰還の途に就いたのであった。


 六月十七日、父を逐って三日後のことである。

 板垣、甘利両識の名の下、躑躅ヶ崎館大広間に武田家諸将が招集された。当主信虎のもとで先月に引き続き佐久出兵のいくさ評定と思って出席した諸将は、上座に座る晴信の姿を見て度肝を抜かれた。晴信廃嫡の噂を知っていた者共だけに、その光景に驚きの目をみはったのである。諸将いずれも声には出さないが

(晴信が家督を継承したのであろうか。まさか)

 と目をぱちくりさせている様を、晴信は上座から見渡した。その晴信の背後に武田累代の家宝である御旗みはたが掲げられ楯無鎧たてなしよろいが鎮座していた。

 板垣信方は

「一同揃いました」

 と晴信に告げた。

 晴信は言った。

「武田晴信、父信虎より家督を譲り受け本日これより武田家当主となった。各々益々忠勤に励むべし」

 一座がざわめきたった。当然の反応であろう。

「待たれよ」

 困惑が混入しているが一本芯の通った野太い声が座に響き渡った。

「晴信公家督継承の儀、まことにめでたき限り。しかしいささか腑に落ちない点がないでもございません。問うてもよろしいですか」

 発言者は鬼美濃こと原美濃守虎胤とらたねであった。よろしいですか、などと伺いを立ててはいるが、駄目だと言って引っ込むような剣幕にも見えない。

「まず第一に、我ら一同信虎公より家督相続の件を聞き及んではおりません。第二に、この場に信虎公が不在であることも不可解でございます」

 原美濃守は出来るだけ平静を保とうと努めている様子であった。しかし次の言葉を発する際には怒気を隠さず、板垣信方に向けて

「譜代諸将は聞き及んでおりましたか」

 と問うたのであった。原美濃守に多田三八さんぱちが加勢した。

「美濃守殿の申すとおり、全く不可解である」

 すると堰を切ったように、諸将から「説明不足だ」とか「謀叛ではないのか」といった怒声が投げかけられ始めた。

 信方が必死に説明する。「連年の戦に民力疲弊して」とか「天命により晴信公が」といった信方の声は、一同の怒号によりかき消され途切れ途切れにしか聞き取ることが出来ない。晴信は上座からその様子を黙って眺めていた。

 信方の説明によっても疑問が晴れることのなかった諸将は、晴信に目を向けた。一同が晴信の発言を待っていた。

「これより武田家は公論により評定を決する。父は駿河において健在であるが二度と再び帰国することはない。父を追って国元を離れる者は討つ。これより余が甲斐守護である」

 と一堂に告げた後、

「御旗、楯無も御照覧あれ」

 と宣言した。

 それまでざわめいていた満座は、晴信のひと言によって静まり、諸将は平伏した。

 晴信はそのひれ伏す頭の数をひとつふたつと心中黙算もくさんした。

 中に一人、ひれ伏す諸将の方に向かって傲然と座する者がいる。板垣駿河守信方であった。

 大広間の騒動を結局鎮めることが出来なかった信方が、今や晴信の前にひれ伏す諸将に向かって座する姿は虎の威を借る狐そのものであった。

 晴信は

(板垣駿河守、どうあっても除く)

 と心中秘かに誓ったのであった。

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