序章(六)
その日の早朝、前日もまた遠乗りに出掛け、睡眠不足のまま見送りに現れた晴信の顔を一瞥して信虎は
「遠乗りが過ぎるのではないか」
とひと言嫌味を言った。
この時僅かに不機嫌な表情を見せた以外、信虎は馬を曳く供廻りの者に対して娘との面会が楽しみであるとか、駿河の海を見てみたいと話しかけて、終始上機嫌であった。
「今川殿からのお迎えの衆と見えます」
信方が関の戸の駿河側にたむろする軽装の侍衆を指差した。
「出迎えご苦労である」
信虎は馬上から、威厳たっぷりに出迎え衆を労った。信虎一党が関の戸をくぐり、駿河へ下向する下り坂に差し掛かった頃である。
突如信方が、抜刀しながら戦場におけるそれと同様に
「閉門」
と
信方の手勢は主の下知に、明らかに困惑の色を示したが、主の抜刀する様を見て
越境した信虎一党は口々に怒声を上げながら、
「晴信、汝の企てか」
信虎が怒声を上げた。
「浅はかなり。余は、余は汝に・・・・・・」
信虎が何ごとかいいかけた刹那、信方は再度大音声で叫んだ。
「甲斐守護武田信虎、永年無用の軍を起こし民生を顧みず。晴信公、民の塗炭を思いここに国守として起つ」
困惑と怒りが入り交じった信虎の表情から、怒りの部分だけが次第に消え失せて、代わりに諦念が現出した。信虎一党はこの場にて一戦も辞さずとばかりに各々弓箭と長柄を構えたが、信虎はそれを制して言った。
「板垣、甘利、飯冨。汝等にひと言言っておく。汝等御輿として晴信を担ぎ上げたつもりなのであろう。だが汝等は遠からず晴信に除かれるであろう。晴信は・・・・・・」
一息継いだあと、信虎は
「代々内訌を勝ち抜いてきた武田の嫡男だからだ」
と叫んだ。
しばし沈黙が流れた。きりきりと弓箭を引き絞る音が、国境の山野に響く鳥の声や草木の揺れる音に交じって聞こえてくるような静寂であった。
信虎は
「花倉へ案内せよ」
そういって馬首を南に返したのであった。主君の戦意喪失を見た信虎供廻りも、各々武器を収めた。信虎は、今や自身が追放の身であることを否応なく自覚せざるを得ない状況に置かれてしまったのであった。
甲州勢は飯冨兵部少輔虎昌を殿軍として残し、躑躅ヶ崎館への帰路を急いだ。その道中、晴信は信方に言った。
「父は、もとよりこの晴信に家督を譲る気であったようだな」
「こうなった以上詮議は無用。
信方は、信虎の心底を知って今更感傷に浸っているのか、とでも言いたげに晴信を諫めた。だが晴信に感傷など
晴信が考えていたのは、つい先刻、
「母にことの次第を報らせなければならぬ。同席せよ」
居館に帰るなり、晴信は弟に告げた。兄弟は揃って母を訪ねた。何も知らされていなかった母は立派に成長した兄弟を愛おしそうに眺めながら
「見送りご苦労でした」
と言った。その表情には微笑が湛えられている。晴信は母の顔を直視出来なかった。
「実は母上・・・・・・」
晴信は言いにくいことを言わなければならない重圧から口ごもった。
「父上には急遽、ご隠居願いました」
「はあ・・・・・・」
大井の方には晴信の言葉の意味するところが理解できていない様子であった。
「本朝、駿河出立を機に父上を甲斐国外へ追放いたしました」
継がれた言葉に、大井の方は黙り込んだ。
重苦しい空気が
ようやく大井の方が口を開いた。
「自害します」
「母上、なりません」
信繁が慌てて制した。
「では私も駿河へ参ります」
「それもなりません」
兄弟の声が重なった。
「何故ですか。その様子ならば晴信が家督を継ぐことに決したのでありましょう。私にはそれで十分です。手塩に掛けて育て上げた息子たちから何も知らされず、夫を追放された私の身にもなって頂戴。私も武家の女です。夫には忠節を尽くします」
というと、大井の方は肩を震わせながらさめざめと涙したのであった。
「どうしてもとの仰せなら母上には
突っ伏して涙するだけだった大井の方は、晴信の言葉にようやく顔を上げた。
「分かりました。即日薙髪します」
晴信は長禅寺より岐秀和尚を招聘し、母の薙髪の師とした。以降、大井の方は躑躅ヶ崎館北の御隠居曲輪に居所を移し、
御北様
と呼ばれるようになる。
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