第四章(信玄上洛を宣す)‐三

 だがここでまたも病が信玄の足を止めた。

 当初、十月一日の甲府出立を予定していた信玄だったが、病状が思わしくなく先延ばしとなった。一方で、先発隊として山県三郎兵衛尉昌景及び穐山伯耆守虎繁に五〇〇〇の軍兵を預け、九月二十九日に甲府を発向させた。

 病状に恢復の傾向が見えた十月三日、信玄は権僧正任官の謝礼として、これを取り持った慈光坊に対し、未だ切り取っていない遠州において領地を寄進する旨の文書を発給している。遠州方面における軍事行動を示唆する文書であると同時に、この文書の発行が、信玄が躑躅ヶ崎館で執務した最後の仕事になるであろうことを信玄自身薄々ではあるが感じていた。

 いよいよ上洛のときを迎え、信玄は志半ばで倒れた山本勘助や典厩信繁の顔を思い浮かべた。二人が存命であれば、このときを迎えてどれだけ喜び或いは勇躍してくれたであろうか。信玄にとって、十年以上前に死んだ二人は、信玄の望みのために死んでいった家中衆の代表的存在であった。

 特に典厩信繁は、「典厩九十九箇条の事」の例を挙げるまでもなく、信玄の意図を最もよく理解し、その意志の代弁者として家中に大きな影響力を持った。もともと自主自立の精神が旺盛だった甲信の諸侍を束ね、武田が他国に抜きん出て団結し得たのは、「典厩九十九箇条の事」が敵味方問わず広く人々に感銘を与えたからに他ならない。信繁自身は創業半ばにして命を落としたが、その精神は家中に生き続けた。もし信繁が存命であれば、間近に迫った西上作戦の指揮の大部分を任せることが出来たはずで、信玄は余力を以て奥向きのことを差配できたであろう。


 信玄は出陣に先立ち、その奥向きのことで特に気に掛けていた六女松姫のもとを訪れた。それは信玄にとって気の重い仕事であった。

 松姫は新館しんやかたにて恭しく信玄を出迎えた。その姿を見ると、信玄は自分の娘にどう声を掛けるべきなのかわからなかった。

 なので

「十二になったか。健やかであるか」

 などと、特に意味があるとも思われぬ切り出し方をせざるを得なかった。

 現下の情勢により形骸化した甲尾同盟であったが、ほんの五年前までは極めて良好な関係を保っていた。信玄信長双方が盟約の強化を望み、その結果信長の嫡男信忠と松姫との婚約が成立した。これ以降、松姫は実家である躑躅ヶ崎館に暮らしながらも信忠の妻として扱われた。適齢期までは、信忠の妻を武田家で預かる、という体裁を取った結果であった。

 躑躅ヶ崎館には織田信忠室が住まう「新館」が増築され、松姫は新館御料人と称された。織田家から贈られてきた豪華絢爛を極める進物の数々に囲まれた新館御料人は、まだ見ぬ夫の姿を夢に見て、入輿の日を今日か明日かと待ち焦がれながら過ごしていたに違いない。

 だが婚約当時七つに過ぎなかった幼児も今や十二に達した。物事の分別がつく年ごろである。嫁ぎ先と実家の間柄が思わしくなくなってきていることを悟らぬ年齢ではない。

 来訪した信玄を前にして手をつき伏すばかりで自らは言葉を発しようとしないその姿は、父に対する無言の抗議のように、信玄には思われた。

「いよいよ帝都に向けて出発致す」

 信玄は松姫の表情を窺うように言った。

 松は

「御戦勝を祈念致しております」

 と、これも型どおりの返事をするばかりで二人の話は一向に盛り上がる気配がない。信玄はいたたまれなくなった。

「汝が心配することは何もない。この館で心静かに父の帰りを待っているがよい。いずれ良縁もあろう」

 信忠と松姫の婚約は未だ正式に破談となったわけではなかったが、西上の軍を発向すればそうなることは明らかであった。信玄は信忠との婚約が近く破談になるであろうことを含めて

「いずれ良縁もあろう」

 と口にしたものであるが、松の表情に変化はなかった。ただ、伏し目がちのその目に、哀しみや怒りといった負の感情を相手に悟られまいと努める様が辛うじて垣間見られるのみであった。

 次なる良縁に期待する言葉や表情のひとつもあれば信玄の気も幾分晴れたはずであり、それを期待したものであるが、松姫はひと言も発しなかった。

(一層、詰ってくれた方がやりやすかったものを)

 信玄は上腹部に、くだんの鈍痛を覚えながら松姫の見送りを受けたのであった。


 半ば強引に病の床を払った信玄は馬上の人となった。具足に身を固め馬上に揺られながら、信玄は時折躑躅ヶ崎館を振り返った。

 次第に小さく遠くなっていく府第ふてい

 思えば物心ついたときからこの居館で過ごしてきた。信玄にとって躑躅ヶ崎館は、家族と共に暮らす私的空間であると同時に政庁でもあった。常に近習や出入りの将兵の目に晒され、気が休まる暇もないことにうんざりしたこともあった。しかしいよいよ上洛の軍を発向させるにあたり、自身の病状も考えあわせると

(或いは府第を目にするのも、これが最後かもしれん)

 という一種の感慨を以て眺めずにはいられなかったのであった。

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