第四章(長い遺言)‐一

 信玄は病床の枕頭ちんとうに諸将を召し寄せるよう、勝頼に命じた。

「ああ、ついに来るべきものが来た」

 勝頼は独り嘆じた。

 それは、偉大な父の采配の許、親に見守られながら野山に遊ぶわらべのように自ら鑓を取り一兵卒として戦場を駆け巡る機会が、あの名状しがたい昂奮に包まれる瞬間が、二度と自分の人生に巡ってくることはなくなり、これからは戦といえば自分の采配次第で諸人の生死が定まる、責任ばかり重大でただひたすら物憂いだけの政治活動に成り下がってしまうことを覚悟した上での嘆息であった。


「この度、西上の軍を起こしながら信長を打倒するどころか尾張表にも達することが出来なかったのは妄執の第一である。勝頼は向後、一度は上洛の軍を起こし京に攻め上ることを心懸けよ。

 一昨年の軍議において、余は皆に信長は天下を掌中に治めて後の展望がなく、それが証拠に戦乱の度は増すばかりだと言った。

 今、自らの身を顧みると、百姓ひゃくせいの民の安寧を願って西上の軍を起こしながら、そのための戦によってかえって三遠と美濃に大いなる戦乱を惹起し、しかもこれを収束させることなく帰国の途に就くことは慚愧の念に堪えぬ。信長には天下を治める展望がなかったが、余にはそもそも天下に至る運がなかったというより他ない。

 余はこの度の軍を起こして以来、三遠の多くの諸敵を殺してきた。軍を引けば家康は必ずや報復の軍を差し向けてくるであろう。また信長に対しても、三カ年の鬱憤を散じるためとは申せ、その縁者である女を我が属将に与え、あまつさえ岐阜城下を蹂躙した。あれはあれで武田に対する恨み骨髄に徹するものがあるはずで、家康と協働し武田に仇をなすであろう。

 もし信長が信玄の死を知って攻め寄せてくるようなことがあれば、強いてこれを他国まで出て迎え撃つ必要はない。あたう限り信濃の領内深く引き入れるが良い。濃尾、伊勢、近江、その他京畿の兵は弱い。遠路の行軍、あまつさえ嶮岨な道での行軍を強いられ、疲れ果てて遠からず鋭鋒は鈍るはずである。その時を見計らい、諸人団結して一撃を加えれば信長は二度と立ち直ることが出来なくなるに相違ない。あれは一見強勢を保っておるが、一門譜代含めて心底から信長を扶けようという者に恵まれておらぬ。信長さえ倒すことが出来れば、織田家はおのずから雲散霧消するであろう。

 家康が攻め寄せてきたら、これも敢えて他国に出でて討つ必要はない。駿河に引き込み討ち取るべきである。

 小田原の北条氏政は、信玄死すと知れば武田に預けている人質すら捨てて必ずや武田を裏切るであろう。なのでその覚悟をしておかなければならない。だが氏政を滅ぼすことは難しいことではない。小田原は天下に聞こえた堅城ではあるけれども、四年前にこれを巡検した時には必ずしも落とせぬ城ではないと見た。周囲に付城を築き、こわ攻めに走ることなく時間をかけて囲めばいずれ落ちよう。

 余は永年越後と干戈を交えた。これは余が越後を併呑しようと考えていたからである。だが謙信は北信の諸将を扶け、よく武田の鋭鋒を防ぎ、そのふところに関東管領を迎え、今や上杉の名跡を継いでおる。翻って余は甲斐、信濃両国の守護にとどまっており、余は謙信に対して意地を張り遂に和睦することはなかった。

 だがよく聞け勝頼。

 この信玄亡き後、日本に謙信と並ぶ大将は二人といない。信長、家康風情が束になって掛かろうとも越後を抜くことはよもやあるまい。謙信は男気もあり、他と謀って勝頼を苦しめるような人物では決してない。余は意地を張って謙信を頼らなかったが、汝は謙信を頼るが良い。謙信は頼られて断る男ではない。ああ、まことに守り袋に入れて子等に持ち歩かせたいものだ。

 勝頼はゆめゆめ猛々しく振る舞ってはならない。じっと堪え、当面は外征を控え内治に専念せよ。勝頼を侮って攻め寄せてくる敵は、先に申したとおり領内深く引き込んで討ち取れ。そうやって時期が到来するのを待ち、武勇日本一の謙信と、天下を治める信長の運が尽きるのを待つのだ。

 余が死んでも向後三年はその死を隠せ。

 余は五年前、この病を得たときに死を覚悟した」

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