第二章

第二章(鉄炮と老将)‐一

 横田備中守高松たかとしが目を覚ましたのは夜も明け切らぬころであった。彼は庭の手水舎ちょうずやで手と顔を洗い、素振りをしてから主よりも先に起床していた内衆二人と共に強弓に弦を張った。愛馬に騎乗するや、これを自在に駆け巡らせながら小笠懸こかさがけに矢を射た。狙いは過たず、その中心部に命中する。

 横田備中は文字どおり矢継ぎ早に矢をつがえては放ち、小半刻も弓の稽古をした後、諸肌を脱いで汗を拭った。齢六十を越える老齢でありながら、両肩にはっきりと筋肉の筋が浮き上がって、胸や腹には肉の弛みがない。顔貌には年相応の深い皺が自然な流線を描いて刻まれており、その中に自然な流れと明らかに筋が異なる不自然な流れの皺がある。刀か矢を受けて刻まれた疵である。顔はよく日焼けしているが、頬から顎、そして額から上は日焼けを免れて他よりは白い。平時においても、兜をかぶり面頬めんぼおで顔を覆った姿が容易に想像できた。

 日の出を迎え身支度を調えた横田備中は主晴信を伺候しこうすべく躑躅ヶ崎館へ赴いたのであった。

 横田備中守高松の来訪を受けた晴信は上機嫌であった。高松の顔を見るなり

「よくぞ参った横田備中。面白い物が手に入ったのだ。共に検分せん」

 と声を掛けた。

 横田備中は晴信が勧めるままに館の内庭に降り立つと、そこには的が一つ掲げられていた。庭中に縄が焼けて焦げるにおいが漂っている。

 一人の、若く小柄な侍がくろがねの筒ともくを合わせた三尺ほどの長物を両手で構えている様を見た瞬間、聞いたこともない轟音と共に筒の先端から赤い火花と、続いて煙が噴出した。

 近江国を出て、先代信虎が統治する甲斐武田家に仕官して以来四十余年、甲信に歴戦し滅多なことでは驚くこともなくなった老将も、間近に聞く雷鳴にも似た轟音にはさすがに刮目した。一瞬のことで呆気にとられ気付かなかったが、筒の先に立てられた木板の的の過半が粉砕されなくなっている。筒の先から、火煙と共に何か難いものが飛び出して的を撃ち砕いたらしい。

「これは・・・・・・。初めて見る代物ですが、遠く文永弘安のころ、蒙古が持ち込んだ鉄炮を髣髴とさせる轟音でございますな」

 高松は耳を押さえながら晴信に言うと、

「左様。これが鉄炮だ。先年、種子島に流れ着いた南蛮船の乗員が所有していたものと聞く。泉州堺では既に自作されているようだ。これはそのうちの一つを先般当家が買い取ったものだ」

 晴信は得意げに続けた。

「これは戦に使える。筒の先端から火煙と共に飛び出した鉛弾は一町(約一〇九メートル)とは飛ばぬそうであるが、間近にても当たればひとたまりもあるまい。それにこの轟音。初めて耳にする者は大いに恐れるであろう。これからはこの鉄炮が戦でどんどん使われるようになる。遠からず弓矢はこれに取って代わられるであろう」

 晴信に他意はなかったが、横田備中といえば家中に並ぶ者のない弓の名手である。晴信が手放しで鉄炮を讃える姿にむっとした。

「弱点もありましょう」

 高松が思わず口にしたひと言に、射撃を実演して見せた若い侍がこたえた。

「無論万能ではございません。順を追って説明致します」

 筒の先から弾薬、鉛弾の順に詰め込んで、これを槊杖さくじょうで突き固める。火皿に口薬くちぐすりを入れて火蓋を閉じ、着火してある火縄を火挟ひばさみに挟んだ。若い侍は銃身を構え、狙いを定めて再度まとに向かって引き金を引くと、轟音と共に筒の先端から火煙が上がり、残った的を完全に撃ち崩してしまったのであった。

「兎に角、発射までに斯くの如く時間がかかり続けざまに撃てないのが弱点でございます。また、火縄や弾薬が湿気ると撃つことが出来ませんので、雨や霧に曝すわけには参りません」

「他にないか」

 晴信が問うた。

「連続して撃ちますと、銃身が熱を帯びて弾薬が意図せず破裂致します。湿気を嫌いますので水で冷ますというわけにも参りません。御屋形様仰せのとおり、弾は一町ほど先まで離れてしまっては胴を貫くことあたいません。必殺の距離はせいぜい二けん(約三十七メートル)ほどでございましょう」

 若い侍のこたえに、横田備中が言った。

「二間のうちに必ず命中させねば、次の弾を撃つ間にかち立ちにても飛び込まれ討たれるではないか」

「その間は弓矢か鑓衾で防ぐより他ございません」

 若い侍のこたえに悪意はなかった。しかし生涯を賭けて鍛錬した弓矢の業が、この新兵器の補助にとどまると受け取った高松は面白くない。

「戦場ではものの役に立ちますまい。かようなものを取り揃えるよりは、各々おのおの弓馬の道に励まれたが良い」

 高松は憮然言い放ったが、晴信は

「いや、やはりこれからは鉄炮の時代だ。様々弱点はあろうが活かすも殺すも工夫次第だ。能う限り取り寄せよう」

 と自らの考えを口にした。

 すると高松はやにわに館の廊下にずらり立てかけられている弓のうちの一張りを手に取ると、再び庭に降り立った。呆気にとられる晴信と若い侍を尻目に、木板の的を掲げていた支柱に向かって二本、立て続けに矢を放つと、狙い過たず支柱に命中した。

「お望みとあらば騎乗しながら斯くの如く命中させて進ぜよう」

 高松の言葉に、どうやら自分が手放しで鉄炮を褒めすぎ、それによって老将の機嫌を損ねたことを晴信は悟った。

「御屋形様のお顔も拝しましたゆえ、これにて」

 横田の静かな怒りに接してどこか白けた晴信主従を尻目に、老将が後ろを見せ退出すると、若い侍はその後を追った。

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