第四章(駿河攻略戦)‐二

 武田家が義信事件に揺れていた最中、諸国を流浪していた将軍義昭が織田信長の懐に飛び込んだとの報が信玄にもたらされた。信長は即日といって良いほどの神速を以て上洛の軍を起こし、六万と号する大軍を引率して観音寺城に籠もる六角承禎を伊賀に打ち払った上で入京を果たしたというのである。信玄が受けた衝撃は並大抵のものではなかった。

 信長の入京。

 その事件が、細川京兆家或いはその被官などのともがらが京畿に蟠踞して天下の政務をほしいままにしたのとは意味合いが異なることを信玄自身よく理解していた。

 将軍家から見れば陪臣に過ぎない織田信長を将軍義昭自ら頼んだという事実は、歴代公儀より甲斐守護職に任じられてきた武田家当主たる信玄に、新しい時代の到来を否応なく知らしめたわけである。

 信玄は、信長による京畿の支配が定着してしまえば、輝虎によって北陸道への道を閉ざされたように、東海道西進の道を閉ざされかねないと危惧した。駿河進出は、病身を押してでも速やかにこれを果たさなければならない。

 信玄は諸将に対し今川攻めを実行に移す旨明らかにし、特に駿河と国境を接する河内郡の穴山信君のぶただに対しては

「既に武田に付くと旗幟きしを鮮明にしている今川国衆を通じ、更に内応者を募れ。金に糸目はつけるな」

 と指示した結果、瀬名信輝や朝比奈政貞、三浦義鏡など駿河国人衆が新たにこれに応じた。

 信玄は更に信濃大島城主穐山伯耆守虎繁を通じ、今川から独立間もない三河の徳川家康に今川領侵攻の共同作戦を打診した。

 信玄は虎繁に密かに訓示した。

「駿河侵攻が成ったあかつきには、遠からず三河と干戈を交えることとなろう。この交渉はその時に向けた布石と心得よ」

 

 虎繁が郡代を務める伊那郡は、信濃から三河へと至る交通の要衝である。加えて他家との交渉に携わった部将は、同盟決裂ともなれば全軍の先陣を務めるのが常であった。

 信玄の内意を受けた虎繁が家康に対し

「今川領の分割は川切りで如何」

 と打診すると、徳川からは

「了とする」

 旨の回答を得たことから、虎繁はその交渉結果を早速信玄に復命した。

 信玄は

「川切りは良いが、いずれの川か。まさか天龍川を指してのことではあるまいな」

 と糺した。

 今川領内には主要河川として天龍川と大井川が南北を流れている。この場合、川切りといえば駿遠国境を成している大井川が川切りの境界と捉えるのが常識的なものの見方であった。虎繁はそんな信玄の問いに対し、

「無論、天龍川を指しております」

 と平然こたえてみせたのである。

「家康はまこと、それでがえんじたのか」

「川切りと申し上げて、天龍川か大井川かを鮮明にすることなく了とするあたり、徳川殿はまだまだ青うございます。我等が当然大井川を以て川切りと申しておると早合点なされたのでございましょう。天龍川での川切りなど言い出すはずがないと信じ込んでいるご様子でした。我等が天龍川沿いを南下したとき、さてその青二才が如何に応じるか。それがしはそこを見極めとうございます」

 虎繁は詐術ともいえる交渉の意図をそう説明した。

 信玄は少し考えるふうを示した。

 あまりに相手を喰ったようなやりようでは他国に信を失う恐れがあった。虎繁の言い分は詭弁の類いであり、家康が激怒することは明らかである。だが信長が上洛を果たした今、尋常一様のやり方に拘泥してもたついているいとまは信玄にはなかった。

 信玄はしばらく考えた後、

「よかろう。遠からず干戈を交える相手だ。虎繁に任せる」

 と、裁可を下した。

 徳川との共同作戦打診と並行して、信玄は今川領内に多数の透破衆すっぱしゅう(忍者)を送り込んだ。これらに対し以下のように布礼ふれ回らせた。

「甲軍の侵攻近し」

 即ち、内応を約束している今川国衆に対する暗示である。

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