第四章(三方ヶ原の戦い)‐五
あまりに鼻を衝くので、家康はその臭気によって自らの所在が虎繁の一隊に悟られはしないかと気が気ではなかった。そしてそのように気にし始めると、暗夜の中に突如として湧き上がる敵のものとも味方のものとも知れぬ鬨の声に逐一驚き慌て、辛うじて腹の中に押し止めていた最後の一塊が勢いよく噴出するのを止めることが出来なかった。
虎繁に追われ一度は死を覚悟した家康であったが、その胸の内奥に
(この醜態を晒したままでは死ねない)
という、生への執着が強烈に湧き上がってきた。
暗がりに慣れた家康の目に、ようやく浜松の城門が見えてきた。城門は主の帰還を待って開放されていた。浜松には既に味方の敗報がもたらされていたのである。家康が駆け込むと、城内は大変な喧噪に包まれていた。甲軍の付け入りに備えるためであった。
「篝火を消せ!」
「急ぎ城門を閉じよ!」
そのような声が諸方に飛び交っていた。
そうやって甲軍の襲来に備える味方の諸兵であったが、口には出さぬものの
(それ見ろ、やっぱり負けたではないか)
とめいめいが家康を詰っているように、彼自身には見えた。
なので家康は敢えて
「負けた、大負けだ。げに恐ろしきは穐山伯耆守よ。彼こそは武田の猛牛と申すべし」
と開き直ったように大声で呼ばわった後、
「城門は開け放ち篝火は盛大に焚け。味方が帰ってくる」
と腹立ち紛れに下知して自らは城内の居住区に帰って、女中衆に湯漬けを求めた。
畳の上に大の字に転がった家康は疲労のために
(くそッ! 嗤わば嗤え)
家康はおおいびきをかいて眠り込んでしまった。
城兵は皆、家康のこの姿を見て剛胆なりと安心した、などと後世いわれているが、主が敗戦の恐怖のあまり脱糞して帰城したほどであるから、声には出さなかったが本心では気が気ではなかっただろう。
戦勝の勢いを駆って、山県昌景隊或いは馬場信春隊などが浜松城門の眼前に迫った。
だが、甲軍はそれ以上の追撃を諦め城に付け入ることもせず包囲もしなかった。敗残兵収容のために城門を開き篝火を盛大に焚いてる様を見て、空場の計を恐れた甲軍が浜松攻撃を諦めたといわれているが、それは伝説かもしれない。
信玄は兵力の無用な損耗を恐れていた。信長援兵を家康ともども屠り去った以上、信長との決裂はもはや避けられなかった。浜松を囲んで、これ以上兵力を無駄に損じるつもりは信玄にはなかった。信玄は敵勢追撃のため諸方に散っていた味方を収容した後、犀ヶ崖に本営を移して首実検の儀を執り行い勝ち鬨を上げた。
古今稀に見る大勝にもかかわらず、甲軍は
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