第一章(塩尻峠の戦い)‐一

上田原において敵の手を借り板垣駿河守信方を葬り去った晴信であったが、この戦いは村上義清の明白な勝利であったので武田家による信濃経略は一時頓挫し、心ならずも武田への服属を強いられていた信濃諸衆を奮い立たせる結果をもたらした。

 晴信の甲府帰還の翌月四月三日、晴信は先の高遠合戦において臣従した高遠頼継を出仕させ、宝鈴を鳴らして改めて臣従を誓わせているが、これは頼継に叛乱の兆しがあったからであろう。

 事実、敵の動きは急であった。

 同五日、上田原では高みの見物を決め込んで動かなかった小笠原長時が、村上義清、仁科弾正盛能等と合力して諏方下社に侵入し、周辺に放火狼藉を働いている。同二十五日には村上義清が佐久奪還に動き、武田方の内山城下を放火して廻った。六月十日、小笠原長時は再び下諏方に侵攻したが、これは下諏方衆及び同地区の地下人ぢげにんが合力して打ち払い、小笠原勢は馬廻衆十七騎、雑兵百余名を討たれ、長時自身も負傷したと伝えられる。

 撃退は成ったが、長時による下諏方侵攻は諏方大社の御柱おんばしら神事を妨げんとする心根によって行われたものであり、事実四月の下諏方侵攻により社参人しゃさんにんは一人として神事に参加することが出来なかったという。弱体化した諏方惣領家、大祝に代わって諏方大社の新たな庇護者となった晴信にとって、かかる事態は容認できないものであった。庇護者失格の烙印を押されたも同然だからである。したがって晴信は、密かにこれら信濃諸衆への反撃を期していた。

 晴信にとって幸いだったのは、その意図したとおり、信方の戦死が家中の若手将校の台頭を促したことであった。重石おもしのようにのしかかっていた板垣信方や甘利虎泰の存在が今や全く消え去り、抑圧されていた若い世代がにわかに頭角をあらわすようになったのである。上田原において村上義清を慌てさせ食い止めた馬場民部少輔信春と工藤源左衛門尉祐長はその代表であった。晴信はこれら若手の将を教育するにあたり、戦場における駆け引きの妙や采配、城取の術については勘助を、主家に対する忠勤の心構えについては典厩信繁をそれぞれ教育係に充てた。晴信が家督相続と同時に着手した藩屛はんぺいの構築は、着実に成果を上げつつあったのである。

 なので晴信は、小笠原や村上の蠢動しゅんどうが已まず、支配領域に動揺が走る事態に直面しても、自分でも意外に思われるほど落ち着いていた。

 小笠原勢による諏方侵攻と軌を一にして、下諏方禰宜ねぎ太夫だゆう矢島満清が武田に叛旗を翻し、諏方西方衆までもが小笠原になびいたという報が甲府にもたらされてなお、晴信があまりに余裕綽々に見えるので、信繁などは

「諏方、佐久の支配が危うい状況でございますぞ」

 と言わずもがなの事態を改めて晴信に突き付け、危機感を抱くよう促すほどであった。

 晴信は躑躅ヶ崎館大広間に召し寄せた勘助と信繁が青い顔をしながら諸対策を論ずる様を見て思わず哄笑こうしょうした。

 信繁が

「笑い事ではありません」

 むっとしながら諫めるふうに言うと、晴信は

「すまん信繁。全く、余一人の身では信濃経略どころか国内の仕置しおきもままならん」

 と笑いを噛み殺して応え、

「信繁の言うように、今は余の家督継承以来初めての危機だ。しかし余は信濃経略の前途に不安を抱いてはおらん。自分でも驚くほどに落ち着いておる。青い顔をして角突き合わせている汝等の姿を見ていると、信濃の仕置を任せるに足ると改めて信をおいたまでだ。そう怒るな。

 思うに板垣存命中は看経間かんきょうのまでこそこそ密議を凝らしたものだが、それも遠い昔の話のように思われる。余はいよいよ自らの意志で采配を振るうことが出来るようになったのだ。運命を他人任せにすることがなくなった、といえば大袈裟かもしれんが、信繁をして余が暢気のんきに構えて見えるとしたらそういった余の心境の変化からだ」

 と言った後、

「兎も角も、諏方に侵入を繰り返す小笠原はこのまま放置できん。早急に叩かなければなるまい。次の軍議では広く衆議を募り、戦策を練ろうではないか」

 と続けた。

 信繁は軍議とは大将が決めたことを諸将に伝達する儀式でしかないと思い込んでいたので、

「その考えは至極真っ当でございます。しかし兄上、軍議の場で下々しもじもに発言を許せば、いたずらに紛糾して決まるものも決まらんのではありませんか。ただでさえ急ぐというのに」

 そう懸念を表明すると、晴信は

「広く衆議を募り、熟議を凝らしてこそ大将の意が諸人の腑に落ちると言うもの。そうでなければ人に倍する働きも出来ん。早速諸将を招集せよ」

 改めて信繁に命じたのであった。

 躑躅ヶ崎館大広間に招集された諸将は、これまで板垣駿河守信方や甘利備前守虎泰が牛耳って発言の暇もなかった軍議の場が全く開かれて、ついこの間までと雰囲気を異にしていることにいささか戸惑った。彼等にとって軍議とは、信繁の思い込み同様に、既に決定されている任務をごく事務的に告げられる場でしかなかったからだ。

 したがって良案があっても家中の序列やしがらみによってそれを披露する機会に恵まれなかった者は、晴信が示した軍議の方針に非情な感銘を示したし、逆に旧習に囚われ定見のない者は晴信の意見聴取に戸惑って口をつぐんだ。

 率先して発言した代表は馬場民部少輔信春であった。信春は

「小笠原は嵩にかかって寄せておりますが、所詮は急ごしらえの烏合の衆。小笠原に合力した村上は累代小笠原と競い合ってきた宿敵。矢島は諏方大社の実権を掌握したいだけ。仁科など、既に長時殿と決裂しておると聞き及んでおります。ひと叩きすればあっという間に瓦解するでしょう」

 と唱え、

「それがしに精鋭をお預け下されば、小笠原など速やかに討ち果たして見せましょうぞ」

 と発言すると、負けじと穐山虎繁や工藤祐長などの若手将校が「いや、それがしが」「抜け駆けでござろう」などと口々に発するので軍議は信繁の心配したとおり紛糾した。こうなったときに勘助が

「調略は如何でござろう」

 としわがれた声を発すると、一同はその声を聞き取ろうと静まるのである。勘助の提案に、晴信は亡父に代わり諏方郡代の地位にある板垣信憲に対し

「仁科、矢島などが調略に応じる目はあるか」

 と下問すると、信憲は汗滴を垂らしながら

「民部殿の見立てどおりならば目はあると存じます。勘助殿が調略に乗り出されるとあればきっと上手くいくでしょう」

 などと、全く主体性のない意見を口にしたので、晴信は

(諏方郡代でありながら敵の内情も知らず、つい先日まで配下にあった矢島の心根にも通じていない。信方の家中衆として、一体今まで何をやってきたのか。思うに信方の簒奪さんだつくみして一国一城のあるじとなることを夢見ていたのであろう。それが成らなかったゆえに、勤めに身が入らんのだ)

 今更ながらこの人物に落胆したのであった。典厩信繁は、黙り込んでしまった信憲を尻目に

「徒に個人の武名を追求して蟻の群れのような戦をしても詮ないことだ」

 といきり立つ若手をなだめ、上座の晴信に向き直って

「とはいえ兄上、上田原にて手痛い敗北を喫した直後なればこそ、武田の武名を挽回する必要があると存じます。馬場民部の申すとおり、ここは積極策を採用すべきでありましょう」

 と進言すると、晴信は信繁の意見に反駁はんばくする者がないことを見定めて

「小笠原を撃退するため、十一日に甲府を発向する。各人領内の武勇人、有徳人を募って参陣すべし。

 一同、大義であった」

 一方的な通告の場ではなく、議論を交わしての軍議であったので、広間を出る諸将はそれぞれ

(小笠原相手に小手先のわざは必要ない。思う存分暴れてやれば良いのだ)

 と胸に闘志を燃やしたのであった。

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