Act39.幾夜 ~隠れた小りす~

第108話

 幾年も前の記憶をたどりながら、夢未の自宅にたどりついたときには、そこはすでに警察の領域と化していた。爆音をききつけた隣人が通報したという。

 夢未が父親を撃った。

 自らも重症でいる。

 そう聞いた時から、すべての音と色が、幾夜の世界から消え失せた。

 栞町大学病院の緊急病棟の扉が自動で開くと、医師の説明をもそこそこに、中にかけて行く。



 ベッドに横たわる夢未を見て、全身の力が抜ける。

 頭や体に包帯を巻きつけた彼女の目は開かれていた。

 意識がある。

 それだけで全身の力が緩んで、抱きしめていた。

 安らぎは一秒ともたなかった。

 和らいだはずの緊張が全身に集約する。

 幾夜から名前を呼ばれた夢未が言ったのだ。あたし、夢未じゃないわ、と。

 思わず解放して見たのは、あの子りすの目ではなかった。

 大人びて、怪訝そうに細められた、瞳。

「彼女は友達よ」

 かすかな違和感は忍び寄り、ついに病室を支配した。

「あたしの名前は……なんていうんだろう。忘れちゃったわ」


 解離性同一性障害というのが、夢未の診断結果だった。

 一人の人間の中に、まったく別の記憶を持つ人格が複数存在する病のことは、幾夜も聞いたことがあった。

 たしかに、目の前の少女は、これまでの夢未とは思えない口調と行動傾向をもっている。

 医師は言った――その発症には、虐待を受けた経験との関連性が指摘されることもある病だと。

「天井からずっと見てたの。夢未が殴られるところを。かわいそうだったわ。ほんと、人でなしよ、あの父親は」

 その鋭い指弾に幾夜は息を飲んだ。

 父親に関して夢未は決してこんな言い方をしたことはなかった。

 通常一定時間が過ぎると人格は交代し、主人格と呼ばれるもとの人格に戻るらしいが、夢未の場合、その瞬間はその後数日が過ぎ、数週間が経過しても訪れなかった。

 朝が、夜が巡ってくるたび、そこには夢未の顔をした、夢未ではない少女がいる。

 その事実は拷問のように、幾夜を打ちのめした。

 急くべき理由はもう一つ。

 身の潔白を訴える必要が、今の彼女にはある。

 夢未は父親に銃を放った。

 別の病院にいる父親は植物状態で、意識が戻る望みは一握りほどだと言う。

 彼女がひどく殴打されたという明白な事実は警察も無論認めている。

 だが今の状態では、夢未は自らの潔白を証明できない。

 取り調べを受ければ、罪人にされてしまうかもしれない。

 そのことがいっそう、幾夜を焦らせた。

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