Act22.幾夜 ~傷跡のカルマ~

第55話

「お母さんのところに行こうと思うんです!!」



『名作の部屋』へやってきて挨拶もそこそこに宣言する夢未に、幾夜は作業の手を止めた。

頬を蒸気させ、瞳は輝き、なんだかわからないがかなりのはりきりモードである。

 ひとまず、片手に持った一冊の本を棚に収め、幾夜は頷いた。

「座って」

 興奮さめやらぬ彼女はテーブルについても、その目をらんらんと光らせこちらを注視してくる。



「念のために確認したいんだけど、お母さんは今、お仕事の都合で奥付にいらしゃるんだよね」

 奥付とは、栞町から二駅離れた場所にある繁華街である。

「はいっ」

 返事もいつも以上に歯切れよく、右手をかかげるという動作つきである。

「お父さんのことも、過去に何度か相談したことがあると、言っていたね」

「……はい」

「あまり効果がなかったとも」

「……はい」



 雲行きが怪しいことを悟ったらしい、夢未はかかげた手をおずおずと下げた。

「たしかに、今までお父さんがおかしいのって伝えても、たいしたことはない、疲れているんでしょうって言われちゃったり……それ以前に、今仕事が忙しいからって相談自体断られちゃったり……」

 幾夜は黙って夢未を見る。再考を促したつもりであったが。



「でも、今度は!」



 少女は再考の結果、考えを改めるまでには至らなかったらしい。

「ちゃんと訪ねていけば、お母さんだって断らないはずです! お母さんだったらきっと、きっとじょうずに、なんとかしてくれる」

 幾夜がかすかに目を閉じ吐息をかみ殺したのも、夢未の目には入っていないようだ。

「お母さん、わたしが小さいころは幼稚園でいじめられると、抱きしめて頭をぽんぽんしてくれたり。絵本だってたくさん、読んでくれて」

 少女の期待に潤んだ瞳。だがその声音は徐々にしおれて。

「ほんとうは、いい人なんです」

 そして、その瞳を潤ませているのが、ほんとうは涙の純水であることに、彼女は気づかない。

「でも、人は変わることもあるよね」

「……星崎さん?」

 苦い感情が表情に出るのを努めて抑えつつ、幾夜は思う。わずかな期待にすがり、裏切られ、深く、傷ついて、何重もの傷跡を小さなその胸に重ねていく。父親に対する感情のカルマと恐ろしいまでに、まったく同じ。繰り返しだ、と。

「お母さんがこの状態のきみを七年間もほったらかしにしているというのも事実だ。離れて暮らしているのは仕事の都合だというけれど、ここまで来て、お父さんの抱える問題にまったく気がついていないというのは、さすがに無理があると思う」

 ――……となれば。

 幾夜はそこで言葉を切る。

 夢未の惨状に気づいて、あえて見ないふりをしているのか。

 正直、そこまで推察されうるような気がしている。

「そう思うと、前向きな期待ができる話だとは思えないんだ」

「星崎さん……」

 しゅん、と夢未が首をもたげた拍子にその肩から落ちた三つ編みの房まで、うなだれているように見える。

「わたしのお母さんなのに……。久しぶりに会ったら。わかりあえることだって、あるかもしれないのに……」

 零れ落ちた二つの房が、肩までの残りの髪とともに恨めしげに左右に揺れる。

 と思ったら、ふいにぴたりと止まり、今度は哀願するような小りすの瞳が上目遣いで見つめてきた。

 弱ったな、と幾夜は半ば無意識に、花のランプが飾られガラス越しに薄紅の空がのぞく天井を見上げる。

 こういう顔をされると、こういう状況の子どもに必要不可欠である現実の提示も、どうにもやりづらい。

「それに、お母さんがうち来ないのも、すごくお仕事が忙しいからなんです。わたしを将来、大学に行かせてくれるために、がんばってくれてて」

「夢ちゃん」

 が、あえて心を鬼にして、幾夜は言い放った。

「これはもう、きみたち家族だけで修復できる問題じゃないんだよ。情や利害が絡んで、結局は問題をうやむやにしがちな身内より、公正な専門機関に頼るべきだと思う」

 ぷくっと、木の実をいっぱい頬張った小りすのように、夢未の頬が膨れ上がる。

しまいに彼女はぽつりと、どんぐりの先のような、ほとんど抵抗力のない抵抗を、吐き出した。

「……星崎さんのいじわる」

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