第54話
本を閉じたとき、胸の奥で、絵本の色遣いのようなポップな花々が徐々に先広がっていくような心地がしました。
なんてすてきなお母さんなんだろう。
おちゃめで、それでいてちゃんと子ども心がわかってるって感じです。
そっと絵本を閉じて、絵本から立ち上がる残り香のように脳裏に立ち上ってくるのは、幼いころの日々でした。
自分で言うのもなんですが、わたしも幼い頃からちょっと個性的な女の子だったような気がします。人見知りで、大人でも同年代の子でも、人と話すのが苦手。いつもなにかを空想している子どもでした。
幼稚園に入ったばかりの三歳くらいのとき。わたしもデイジーちゃんのように、ちょっと変わったものにハマっていました。アニメの影響で、かっこいい女の忍者、くノ一に夢中だったのです。スパイとは違うけれど、どこか共通するものもある気がしますね。機密の任務とか、影の暗躍者とか、そんな言葉なんてまだ知らないまでも、そういったものや雰囲気に、子どもってひきつけられるんだと思います。アニメ絵本を読んでいるとき、お母さんに呼ばれたのです。
「夢未、くノ一の任務開始よ」って。
お母さんから言い渡された任務は、お父さんが帰ってくるまでに、お母さんがまな板で切った野菜をきれいにお皿に並べてサラダを完成させることでした。我ら宿敵をわなにかけるのだ。一口食べればのたうちまわる恐ろしいサラダを作ろうぞ、と言ってお母さんはおどけて笑いました。
真っ赤なトマトを辛さ十倍のとうがらし、レタスは毒の葉、細かく刻んだセロリやコーンの粒は眠り薬の粉と呼んで次々にお母さんから手渡されたとき、おどろおどろしい名前にもかかわらずそれらがうきうきと踊りだしそうなきがしました。
一方で、かってに宿敵にされたお父さんは帰宅すると、サラダを一口食べて、苦しみ悶えるという迫真の演技をしてくれて――。
知らず、絵本を持つ手が震えていました。
昨日も、帰宅が少し遅くなったと言って怒鳴っていたお父さん。
このところお父さんの機嫌が悪い日が続き、大きな声で起こされることもあり、心身の疲弊が積み重なっていました。
だらんと下がった手から、絵本があるページを開いたまま、無残に垂れ下がります。
いけない。この本はわたしのものではありません。お店の商品なのだから、ていねいに扱わなくては。そう思ってそっと本を閉じようとしたとき、絵本の中のある人物が目に飛び込んできました。
サングラスをかけてペンでひげをかいた小さな女の子を抱きしめている、やっぱりへんてこなサングラスとひげをつけていて、紫のコートの、ふわっとした髪の女の人、〔0021チョット〕――デイジーのお母さん。
母子の姿が、遠い日の別の二人に重なります。
サラダ用の野菜をきざむお母さんと、食器棚からお皿を出して、お手伝いする女の子。
はっと息を飲み、わたしは目を見開いていました。
そうだ。
お母さんに、助けを求めればいいんじゃないでしょうか。
急に目の前が開けたかのように、わたしはじっと目の前の棚を見つめたまま、微動だにしませんでした。
心地よい初秋の風が、肩までの髪とサイドの三つ編みをすくって揺らしました。
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