第44話

「たぶん、境遇、だと思います」

 どんなに悔しくても、不本意でも。

 それはわたしにとって動かしがたい事実でした。

「その、わたし、家庭環境が少し、複雑で。星崎さんは優しいから、きっとそれで」



 優しさで、かこわれている。

 その自覚が常に、ありました。

 その安全な柵の中、わたしはいつも叫んでいました。

 星崎さん。

 わたしがほしいのは、あなたの優しさじゃない。

 どうか気づいてくださいと、牙も爪もない無力な皮膚で、ケージをかきむしって――。



「ほんとに、それだけかしら?」



 我に返って見ると、小夏さんがちょっとだけいじわるに笑っていました。

「家庭環境が複雑ってだけなら、そういう子って、けっこうたくさんいるのよ。このあたしもそう」

 小夏さんの瞳がどこか懐かしむように、細められました。



「小さい頃、父にすごくかわいがられて。大好きだったの。小学校二年のときだった。父がイギリスに一年間出張に行くことになって、くまのぬいぐるみを買ってきてもらうって約束して。ずっと会えなくなるのは寂しかったけど、それを楽しみに待ってた」

 少しずつ、息苦しいような感覚に襲われて、わたしは一口にも満たない量のジュースを口に含みました。

 わたしも、そうでした。

 小さいころはお父さんが大好きだった――。

「その年の終わりに、父が帰ってくることになって。カレンダーを毎日見てはカウントダウンしてたわ。あと何日でお父さんに会えるって」

 知らず、缶ジュースを握り締めていました。

 まだ、思い出せます。

 小さい頃わたしも感じていました。お父さんの帰りを待つ、弾んだ気持ちも。

 けれど、と小夏さんが瞳を閉じました。



「帰りの飛行機が乱気流で行方不明になって、父はそのまま帰ってこなかった」

 缶ジュースを握っている指が反動で押し返されて、ふにゃりと緩みました。

 すぐそばで、暴走するように大きな航空機が近づき、去って行く音を聞いたような気がしました。

「ショックだったんでしょうね、それがきっかけで母も身体を壊しちゃって、あたしは施設に入ったの」

 これ、と小夏さんはバッグについている小さな緑のリボンのくまさんを、揺らしました。

 ハロッズという、ロンドンの有名なデパートのくまさんだそうです。



「入院する直前、母が大泣きしているあたしにくれたのがこの子。お父さんが天国から送ってきてくれたよって」

 そういう小夏さんの声も、瞳も、かすかに揺れていました。

 それをふりきるように青空を仰いで、さっぱりした笑顔をつくると、小夏さんは続けました。



「父親を亡くしたばかりの子どもがそんなことされたらさ、よけい泣けてくるわよね。優しい人だったの。母も。だからこそ、父の死が耐えられなかったんだと思う。泣けて泣けてしかたないくらい、いい両親だったわ」

 ぽつりと小夏さんの腕のそばにたたずむそのくまさんが、なぜだか別のくまさんと重なりました。

 そのときのわたしの目には、お父さんが買ってくれたくまくまが浮かんでいました。

 年月を経ているのによく手入れされている小夏さんのくまさんとちがって、汚れてしまったぼろぼろのくまくま。

 小夏さんとちがって、わたしのお父さんは今も生きています。

 でも、なんだかにはそのときの小夏さんがそのままのりうつったかのようなふしぎな感覚に陥っていました。



「そのくまさん」



 気がついたら、わたしはベンチから立ち上がって、小夏さんの中の、小さな小夏さんに呼びかけていました。



「ほんとうに、小夏さんのお父さんからの、贈り物なんじゃないでしょうか」

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