第8話

 ガラスの手すりにかこまれた店の中心をつらぬく階段を下る途中、広い踊り場に、ふしぎな空間がありました。さっき通ったときにも目の端にとらえたのですが、一刻も早く二階へと急いでいたわたしはきちんと目をとめることをしなかったのでした。

 れんがでできた六角形の、ちょうど絵本に出てきた、宝石をつくっている工房のような建物です。



「『名作の部屋』へようこそ」



 その部屋にはいったとき、いっそう、わたしは優しいこのおにいさんを王子様みたいだと思いました。

 夢の国に連れてきてくれる王子様です。

 部屋の中にはやっぱり六つの壁があってどの面も壁ごと本棚になっています。

 本たちが大切な宝物のように背表紙を光らせながら並び、時にぜいたくに表紙が見えるように立て掛けられています。

 高いところの本もとれるように足場の太いはしごがいくつか、かけてありました。

 ところどころ本棚にぬいぐるみが置かれていて、きっと本の中にでてくる子たちだとわかったのは、赤い髪の毛を三つ編みにした、緑のエプロンドレスの女の子が目に留まったからです。あれは赤毛のアンにちがいありません。そのそばの棚にわたしは駆け寄りました。



「『赤毛のアン』のシリーズがぜんぶある! 『飛ぶ教室』に、ピッピの本も」

 思わず手を伸ばしかけて、はっとひっこめました。触っていいと言われていないのに気がついたのでした。

「よく知ってるんだね」

 そう言うおにいさんに、答えます。

「前は、お父さんが図書館に連れていってくれたから」

 一瞬黙ったあと、おにいさんは続けました。

「『パディントン』もずっと読んでたもんね。外国の名作が好きなんだ」

「はい。日本のより好きです。いつもとぜんぜん違うところに行ってるみたいで」

 うきうきと答えたのだけれど、そうしたら、おにいさんがまた、少し悲しそうな顔になりました。

 でもそれも、すぐに優しい笑顔にとけてしまいました。

「真ん中のテーブルで、好きなの読んでいいよ」



 わたしはちょっと背伸びをして、『赤毛のアン』に手を伸ばしました。

 読んだことがある本だけど、挿絵がわたしの知っている本とは違っていたんです。

 ソファに座ってページをめくり、雪の女王と呼ばれる桜の花や、緑屋根のかわいいアンの家の挿絵をじっとみました。

 しばらくして、同じくらい熱心に、わたしの顔も見られているのに気がつきました。



 いつのまにか斜め前にもたれたおにいさんが、じっとわたしを見て、言いました。



「お父さんは、きみになにか、するのかな。……つまり、たたいたりとか」

 がんっと頭の中で音が鳴って、まるでほんとうにたった今、たたかれたように思いました。

 そのときはじめて、それまでおにいさんが、出会った日のお父さんとのことなんてまるでなかったようにふるまっていたことに気がつきました。

「……お父さんは、なにもしません」

「そうか」

 ちょっと目を細めたけれど、それ以上、おにいさんはなにも訊いてきませんでした。

 アンの世界も、もう頭に入ってきませんでした。

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