Act4.夢未 ~夢の国へ~

第7話

 ご近所さんが連なる坂を下って、駅に続く大通りへ出たら、右に曲がる。それからずっとずっとまっすぐ。おしゃれなネイルサロンのお店の前に来たら、斜め左の小道に入って、すぐ。

 お日様の色がオレンジになって、ゆっくり西にある栞山のほうに落ちかけるころ、わたしは頭の中で呪文のように道順を繰り返しながら、あの日お父さんに連れられてやってきた本屋さんへの道を進んでいました。それ以前にも何度か、お母さんと二人で、あるいは家族みんなで来たことがある場所だったので、ポイントは覚えていました。



 お父さんがお仕事に行っている昼間のうちを見計らって、学校のランドセルを家におろしたあとどうしてこうして一人で冒険しているのかというと、星降る書店というその本屋さんのおにいさんに会ったあの日、わたしは夢がかなったように思ったからです。

 とってもおもしろそうだったライオンの絵本の読み聞かせを聴くことができたのも、大好きな『パディントン』の本がもらえたのも嬉しかったけど、それ以上に、わたしの心を甘い音を響かせる小さな鐘のようにゆさぶったの原因は、ほかにありました。


 優しくしてもらったのが久しぶりだったんです。


 さいきんお父さんは怖い顔ばっかり。

 お母さんが家から出て行ってお父さんと二人きりの毎日、眠れない夜によく、空想していました。

 小さかったころのようにお父さんにぬいぐるみを差し出されるのを。

 くまくまをほっぺたに押し付けてすりすりしてくれるお母さんの指先を。



 前みたいに宝石のように大切にされたい。

 はっきりとした言葉にはできなくても、幼いわたしは、そう思っていました。

 だから、おにいさんがご本を聴けるように椅子を用意してくれたときから、王子様に椅子をひいてもらうお姫様になったような気がしていたの。

 おにいさんに夜道を送られて帰った夜、お父さんに腕をつかまれ家に入れられ、とても叱られました。お父さんの言いつけどおりに星降る書店にいただけで、どうして叱られたのかはわかりません。お父さんはときどき、少し前のことも忘れてしまうのです。あれから三回、優しかったお父さんを想像しながら眠る夜がきて、四日目の今日ついに、あの本屋さんに一人で行くことに決めました。



 あのおにいさんに会えるかはわかりません。

 それに、本を買えるだけのお金だってありません。

 でも、開けば違う場所に行ける本をただ見るだけでもいいと思いました。

 だから、自動ドアをくぐってガラスの手すりに囲われた階段を一気に駆け上がったとき、思わずぽかんと立ち止まりました。

 二階の子どもの本コーナーが空っぽになっていたのです。

 あるのは本の入っていない空っぽの本棚がたった二つ。

 あとは一面の薄茶色の壁と白い床。



 力尽き、わたしはその場にしゃがみこみました。

 みんなそうだ、と思ったのです。

 前は優しくしてくれたのに、今は別の人みたいなお父さん。

 いつも優しい声で本を読んでくれたのに、だんだん疲れた顔になって、ついにはいなくなってしまったお母さん。

 物語の世界がいっぱい広がっていたこの場所も。

 優しい人やものって、いつも一瞬でわたしの前を通り過ぎてしまいます。

 三角に折ったひざをかかえて、身体に引き寄せました。



「がっかりした?」



 頭の上からふってきた声に、打ち震えるように顔をあげました。

 一度きりしか会ったことがないのに懐かしく感じる声。

 頭より高く積み上げた本の山を抱えながら、笑いをかみ殺すようにしていたおにいさんは、かるく首をかしげて、わたしがやってきた階段の方向を示しました。

「児童書コーナーが移動したんだ。おいで。きっと気に入る」

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