第26話
人通りが十分にある星降る書店近くの木陰で。
しばらく呆然と口をつぐんでいた夢未だったが。
「夢ちゃん。だいじょうぶか」
改めて向き合ったとき、明らかな異変を感じた。
半開きの瞳。焦点も定まらない。表情がまるでうつろで、意識があるのかすら疑わしかった。
「夢ちゃん。――夢未」
「平気です」
肩をたたくと、存外はっきりした返事が返ってくる。
しかし、強がりであることは明白だった。
直後、酸素を失ったように過呼吸状態になる彼女の背を、幾夜は必死にさすった。
呼吸が落ち着くと、途切れ途切れの声で、彼女は告げる。
「こういうときは、この身体が自分のものじゃないって、空想するの。こうやってしゃべって生活してるもの自分じゃなくて。ほか誰かで」
彼女の肩にかけられた幾夜の手が止まった。
やめてくれ。
頭の中で悲痛を訴える声がする。
「わたしはそれをどこか遠くから見てて。そうすると、楽になる」
いびつな表情でそれでも微笑んだ彼女を、叱るように叫ぶ。
「やめるんだ!」
幾人かの人々が振り返り、我を失ったことに気づくと、幾夜はわずかに視線を外し、ごめんと呟いたあと、もう一度、彼女の両肩に手をかける。
彼女をなだめようとする自分のその手こそ、小刻みに震えていて。
体中に巣くう、猛烈な炎を、彼は自覚した。
自分は怒っている。
なにもかもに。
「夢ちゃん。今は仕方ない。でも、それはどうしても耐えられないときだけにするんだ」
「……どうして?」
それが精神状態として危ういものであることがわかるから。
その言葉を、幾夜は飲んだ。
「いいから。そんなふうに考えるのはなるべく、やめなさい」
そして躊躇なく、かばんからスマホを取り出す。
「星崎さん、どこへかけるんですか」
「警察へ。もうこれは、放置しておいていい問題じゃない。犯罪だ」
スマホを持つてに、小さな手が重ねられる。
その大きさに似つかわしくない強い力で、夢未の手は幾夜のそれを制した。
「お父さんは、悪い人じゃないんです」
……まだ言うのか。
その声を外に出すことを抑えることは、ついにできなかった。
「夢未。わかっているのか。きみはあの男に売られそうになったんだ」
りすのような瞳がきょとんとしばたたき。
直後。
目が覚めたような慟哭が響き渡る。
破裂した感情をすすり上げながら、夢未はなおも幾夜の腕にすがった。
「おねがい。やめて。やめてください、星崎さん……」
幾夜はかんだ口の中で、学生のころに学んだ、神は死んだとかいう哲学者にうそぶく。
そのとおりかもしれないな、と。
「お父さんを、世間の中で悪い人にしたくないんです」
でなければ、この理不尽は一体。
スマホを投げつけて今すぐに打ち砕きたい衝動にかられる。
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