第83話
見上げると青い空間の中に浮かぶ雲が、ピアノや傘の形になって浮かんでいる。
まるでこの問いが解けるかな、とこちらを楽しげに見下ろしているように。
「なかなか意味深い難問だけど、出てくる登場人物の名前と、最初に書かれている言葉から、この問いでテーマになっている作品は」
「エーリヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』、ですよね」
幾夜はうなずいた。
クリスマスの時期にドイツの寄宿学校で繰り広げられる少年たちの日々を描いた傑作である。
『飛ぶ教室』という作品タイトルは、少年たちが自ら書き下ろし、上演するクリスマス劇のタイトルのことなのだが、
「あの劇、すごい発想ですよね。未来の学校では、教室が飛行機なんです。古代エジプトに行って歴史の授業なんて、楽しいだろうな」
小さく身体を弾ませる夢未に微笑みつつ、幾夜は首をかしげる。
「たとえ未来の学校がそうなったとして、夢ちゃんをエジプトには行かせられないかな」
「えー。行ってみたいです」
「この劇みたいに、ツタンカーメンにピラミッドの中に連れ去られたら困るから」
ぱちくりと、夢未がその瞳をしばたたく。
「やっぱり、ねずみになってオレの手元においで」
「うーん、それもいいけど~」
迷うように身体をふりふりとふると、夢未は続ける、
「エジプトがだめなら、星崎さんといっしょに、『飛ぶ教室』で、絶対王政時代のフランスのヴェルサイユ宮殿に行くとかどうでしょう! 宮廷貴族みたいにロマンチックなときが過ごせるかも。マリー・アントワネットさんのお部屋とか、見てみたいですー」
「彼女の部屋は、わざわざ王政時代にさかのぼらなくても、今でも見ることができるんだよ」
「えーっ、そうなんですか?」
ふいに頬を染めてうつむくと、むぎゅっとブラウスの裾を握り、もごもごと夢未は呟く。
「じゃ、いつか、ほんとに……連れってくれますか」
「いいよ」
あっさり了承する幾夜に拍子抜けしたように、夢未はぽかんと口を開けた。
そんな彼女に、右目を閉じて、幾夜は諭すように言う。
「ちゃんと学校を卒業して、好きなことを見つけて働くようになったらね」
がっくりと夢未は大げさに肩を落とした。
「それって、ずっとさき」
またまた頬を膨らます夢未を見つめる幾夜の目がふいに真剣になる。
ずっとさき――まだ世に出て十数年のこの少女にとってはそうなのだろう。
だが実際は、世の中がより強い力で、非力な少女に干渉してくるのは、そうさきのことでもない、と思う。
でも今はまだと、近づいてくるその扉を両手で押し返し続けたい願望にかられる。
上級生の不当な処置に抗う主人公のマーティンがいて、みんなに臆病ではないところを示したいと、傘を持って高いところから飛び降りる無茶をする少年のウリーがいて。
「飛行機に乗って授業をするって発想もそうだけど。この作品わたし大好きなんです。子どもたちも個性豊かで、なにより、大人の先生たちが、すごくすてきなの」
そんな子どもたちの周りを、必要に応じてアドバイスをくれたり、ピンチをさらりと支えてくれたりする、尊敬できる大人たちが囲んでいる。
「家が貧しくてクリスマス休暇に電車の帰り賃がないマーティンに、お金を渡してくれる、正義先生とか」
瞳を輝かせる少女に胸の内で幾夜は語りかける。
今はまだ――きみもこの作品のような世界にいてほしいと思う。
「そういうすてきな登場人物たちが醸し出すお話ぜんたいの雰囲気が、もう大好き。クリスマスになるたびに、何度も読み返しちゃってるんです」
せめて、本の中でくらい。
「物語最初の部分で、マーティンたちと別の学校の生徒たちとけんかが勃発したとき、相手校に人質にとられたのは仲間の一人と、採点済みの書き取りノートでした。だから答えはノートっと」
明るく高らかに空の国に響き渡る少女の声を聴きながら、幾夜はそっと、胸の内の吐息をかみ殺した。
答え ドイツ語の書き取りノート
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