宝石工房を繰る
ほか
Act1.幾夜 ~迷いりす~
第1話
片耳のもげたくまを、本棚の上から救出した。
脚立から滑り降りて、痛々しいその小さな頭部についたほこりを払い落してやる。駆け寄ってきた部下の書店員が、残念そうに嘆息した。
「もう終わっちゃったんですか。子どもの大事なお友達を助けてあげる、
エプロンのポケットにそそくさとスマホをしまう彼に軽く目で応えると、
星降る書店栞町本店名物『ぬいぐるみのお泊り会』なるイベントゆえである。
小学三年生以下の子どもたちを対象に、お気に入りのぬいぐるみを預かり、後日、ぬいぐるみが書店内で本を選んでいる様子を撮影した写真を提供する試みである。
本来図書館で行われはじめた企画だが、読書の促進には有益そうだったので、社員からの提案を採用してみたら、まずまずの評判で、本日三度目の開催を迎える。
ぬいぐるみたちが子どもたちの手元に帰る今日、書店員による読み聞かせが行われているというわけだ。
席の一つ一つに目をこらしながら、会の開始直前に泣いていたくまの持ち主の男の子をさがす。
まれに起きる予想外の事態を収束するのは、裏方に徹する面々の役割だ。それにしても、自らの身長の倍にものぼる高さの本棚にぬいぐるみを放り投げる力が、小さな身体のいったいどこに備わっているというのか。
「こういうことはオレらがやりますから。事務室で座っててくださいよ」
となりにくっついてきた社員に目を移す。
マネージャーである彼の小言も毎度のことである。
「イベントの様子を見に立ち寄ったついでだよ」
「社長をこきつかうなって怒られんのオレですから。おもに女子社員に」
社長社長と小規模書店の肩書にやたらとこだわる彼はしかし、幾夜と同い年である。
「バイトの教育。クレーム対応。やることは山ほどあるんですから」
数年前、大学を中退して起業したときからのつきあいゆえに、おのずと呼吸もつかんでいる。
「それはお前がてきとうにやっておいて。人の管理は骨が折れる。オレは本相手のほうが好きだから」
わざとけだるげに応じてからかえば、笑みを混じえてはいるが容赦ない釘刺しが返ってくる。
「またそういうこと言って。来月のシフト、今日中に出しといてくださいよ」
「はいはい」
幾夜は肩をすくめて、視線を会場に戻す。
薄紅の破片が視界の端をかすめて、なにかと思えば桜の花弁だった。
来店客にはりついてきたのか、窓から入り込んだのか。強すぎないようにしてある店の照明を受けて子どもたちの頭の上をひらりひらりと遊ぶように舞い、会場の後ろの床に着地した。
落ちた花弁のとなり、二つの小さなスニーカー靴に、意識が吸い寄せられる。
会場最後列のすぐ後ろ。そこに、少女が立っている。
十にも満たないほどの年齢だろうか。
黄色いパーカーに白い無地のスカート。首元に鍵をぶらさげていた。今どきの街中の女の子にしては、地味ないでたち。
かすかに肩に触れる程度にかかる髪は、窓から射しこむ陽光のせいか淡く茶色がかっている。左右に一房ずつの編み込みが唯一、少女らしさを主張していた。
小さな顔についたアーモンドのような色と形の二つの目は、ずらりと並べられたパイプ椅子の向こう――エプロン姿の女性書店員が持ち上げている絵本を注視している。その視線はパイプ椅子に座ったどの子にも劣らず熱心で、そのくせ遠慮するように会場の隅で身を縮めている様子がみょうにいじらしい。
その小さな手に、ぬいぐるみはなかった。
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