第59話

「……さいしょは、小夏の言う通り、きっと不憫に思ったから。でも今は」



 煙が去り、胸に残るかすかな花の香。幾夜は認めた。それだけじゃない、と。

 世渡りが下手すぎる清らかで素直な感情を。

 向けられる無邪気な笑顔を。



「失くしたくないと。あの姿が、世の中の理不尽に飲まれるのが許しがたいと、思う」

 小夏は肩をすくめた。

 しばらくそのままの体勢で、静止する。



 ややあって吐息が一つ。

「……よくわかったわ」

 そこに含まれるのは、諦念と絶望と、愛しさの微笑。



「でもね、幾夜。いくらあなたが、許せないなんて言っても。爪が食い込むほどこぶしを握っても、叫んでも」

 ゴールドストーンのついた爪が、刺すように幾夜に向けられる。

「大地が地割れを起こして、大切なものをあっけなく飲み込むことがある。あたしたちがいる場所って、それくらいわけがわからなくて非情な面があるのよ」



 食いしばった口元で、しかめた目元で、ありったけの抵抗の意志を示し、幾夜は静かに、首肯した。

 人生の初期から複雑に曲がりくねった道を与えられた者同士の、それは決して否定することのできない共通認識で。

「だから」

 小夏は笑ってみせた。

「幸せを見つけたら、そのとき、その瞬間に、ぞんぶんに浸るのがあたしのポリシーなの」

 その瞳に赤朽葉色の光が反射して、優しげに光った。

「大切なものをその手につかんで握りこむのが、遅くなりすぎないようにね」

 華やかで妖艶な花火のような笑顔を幾夜にぶつけると、小夏は立ち上がり、本棚から一冊、背表紙がせり出している本をこと、とかすかな音を立てて定位置に押し戻す。



「はー」



 その手がひらりと宙を舞う。伸びをするために――また新たなものをつかむために。

「ふられちゃったけど、言いたいこと、ぜんぶ言えたから、すっきりした」

 孤児院にいたころと同じ、どこか生意気なこまっしゃくれた笑顔で。

 じゃぁねと軽く手を上げて、小夏は幾夜のもとを去って行った。

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