Act2.幾夜 ~閉店前~

第4話

 フロアの中心にある階段を上がって、二階へ向かう。

 花の形のほのかな電灯ともる店内にはオルゴールの音楽が流れている。

 閉店前の見回りである。



 階段を上りきって児童書のコーナーに並ぶ本たちを見て、幾夜が思い出すのはやはり、昼間イベントに来ていた子どもたちのこと。

 ライオンの出てくる絵本に、とりわけ見入っていた、編み込みの少女。



『くまのパディントン』を彼女は最後まで読むだろうか。

 廃棄本とは言え客に商品を与えるなど、出すぎたことだったか。

 ふいに、ある人の苦笑が、脳裏に浮かんだ。


『幾夜。あなたは育ちのせいで老成した若者ではあるが、そのじつ、とても柔くてもろい、理想主義的な部分があります』


 表情と同じく口数も、終始少なかったが。

 少ない言葉を深く他者の胸に刻む人だった。

 きちんとなでつけられた髪は、白髪の混じった灰色。漆黒のスーツ。

 大学教諭だったその人は、家でもたいていその恰好だった。



 幾夜がこの商売を始める直前に亡くなった、育ての親である彼は“無知は強者への隷属を意味する”が信条で、施設から引き取られたその日から古今東西のあらゆる書物に触れさせられた。当時若干十二歳だった幾夜にあてがわれた畳の部屋の書棚には、たいていの大人も手に取るのを躊躇するような難解な書物も混じっていた。

 恵まれない身の上ながら、上質の知識を吸収できることに感謝して勉学に励むかたわら、少年だった幾夜はその人の目を盗んでは、学校や図書館から借りてきた子どもの冒険譚を読み漁った。



 だがある日、夕餉の席でその人はあっさりと言ったのだ。『宝島』は気に入りましたか、と。

 当時はまっていた少年文学のタイトルを出されただけ、とびつくようにはいと答えてしまい、直後かまかけだったことに気づいて、口をつぐんだ。

 だが厳格なその人の口元は、かすかな弧を描いた。



『刃の乾山のようなこの世は、透明度の高い宝石もまた有しているものです。分厚い暗雲にまみれたひとかけらの雪の結晶のように、それを垣間見る一瞬がある。言葉にとうていしがたいそれらを記したのが、児童文学なのです』



 文語体の口調で語られた、常日頃に似合わないロマンチックな言葉を思い出すと、今でも笑みがこみあげる。

 あの日と同じく今宵も、幾夜の胸の中で最後に、彼はこう言った。


『ですから幾夜、そういった質を恥じるのは間違いです。美しい結晶ははかなく、もろいものなのですから』


 幼心にわかるような気がしたものだ。

 登場人物たちが抱く純粋な夢。冒険。

 優しい世界。

 児童文学の中には、珠玉のようななにかがある。


 人の言葉をしゃべるくまが、世事の疎さから大失敗を犯しても、最後は決まって人々に許されてしまう。

 またその展開に読者も納得できてしまうのだ。くまのとぼけた愛らしさゆえに。

 幾夜は息をついて、そのくまを見た。

 そして、目を疑った。

 いや、くまがここにいるはずはない。くまが描かれた本の表紙があるだけだ。そこまではいいとして。

 問題は、両手にそれを持ち、一心に読んでいる小さな姿だった。

 両サイドの編み込みの真ん中にのぞく、見覚えのある小りすのような目と目があうと、彼女は、ばつがわるそうにぱっと本を閉じて、身を縮めた。

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