第13話
一瞬、なにを言っているのかと思いました。
『アルプスの少女』の本の話をしだしたその口調はいつもその話題に触れるときと同じく、何気ないものでした。
「夜な夜なベッドから出てさまよい歩く。冷たい屋敷の中を故郷だと思って。あのとき、『アルムの山に帰りたい』って言うのをがまんしてたの覚えてる」
お父さんのゆがんだ表情も、悲しい思考もいつしかどこかへと吸い込まれ、わたしは目の前に、ある風景が広がるのを見ました。
ゆったりしたワンピースに慣れた身体を、華やかな衣装でしめつけられ、豪奢な屋敷の牢獄の中をとぼとぼ歩く小さなハイジの姿が。
「言いたいことをがまんすると、それは少しずつ心の中にたまっていく。きみの想いを知っている人がだれもいない世界が、君のまわりで動いていく。知らず、自分とその周りのあいだに大きな裂け目ができている」
ハイジのそのかわいらしい目に、物語冒頭で見たような快活さはありませんでした。
凍てつくような光を放つシャンデリアが、壁に飾られた絵画が、ぼんやりとその目の中を通り過ぎていきます。
「さいしょのうちは平気だし、それでいいとすら思うかもしれない。でも、裂け目の深さを見通すうち、それがいつかきみは耐えられなくなるから」
現実に意識を戻したとき、さんざん泣いたせいなのか、さっきより気分はましになっていました。その気になればまだまだ泣けそうではあったのですけど。
かわりに一つ、言葉が転がり出ました。
「……お父さんは、わたしは手のかかる子どもだって。しつけなおさなきゃいけないんだって。それで」
その続きを言うことはできなかったけれど、星崎さんにはわかったようで、あきれたように一つ息を吐くと、机とは反対の本棚のほうを見つめてつぶやきました。
「やむをえないな、荒療治だ」
え? と訊き返す間もなく、その顔が近づいてきました。
わたしの座っている椅子の背もたれに片腕をかけて、身体をかしぎ、耳元で、彼は言いました。
「きみが苦しいのはきみのせいじゃない。お父さんがこうなったことにもきみには一点の責任もない。この点にかんして、きみはお父さんよりオレを信じなければならない」
まるでなにかの誓約のように、そう一気に言ってしまうと、いつもの笑顔でこちらをのぞきます。
「できる?」
どう答えたらいいのか、とっさにはわかりませんでした。
目を閉じるとそこにまた、ハイジがいました。
その周りに、冷たいお屋敷はもうありません。
白銀の山々がバラ色の日差しに染まるそのさなかで、窮屈なドレスを脱いだ女の子がゆっくりと立ち上がり、駆け出して行きました。
真っ白な光の中へと。
その影に誘われるように、いつしかわたしも駆け出していました。
帰るのです。
アルムの小屋の大好きな人の元へ帰ったハイジと同じく、わたしも。
疲れたら必ず、あたたかい寝床へ帰るのです。
その日から、何度もこう言って、扉を開けました。
星崎さん。
こんにちは。
また、来ちゃいました――。
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