第22話

ガラスの天井越しにあたる真夏の日光が、入道雲にさえぎられ、途絶えた。

幾夜の面差しがかげる。

だいじょうぶなの。

小さな真珠の粒のような笑顔を浮かべる彼女にはしのびないが、胸をよぎる第一声はやはりそれだった。

だがあえてその一言を押しとどめる。



「そう。いつ行くの?」



 危機の訪れるかもしれない正確な日時を、確認しておきたかった。

 父親とともに過ごすこと自体、結局は否定するくせに。

 だがそれをさいしょにしたら、父親に希望を抱きたいその切なる願いを打ち砕くことになる。楽しみの休日にまでお父さんが仇をなすはずがないと、あくまで父をかばう夢未はその日付を答えてはくれないかもしれない。

 それを見越しての問いかけだった。

 なんだか欺いているようで、切ない熱のようなものが幾夜の内にこみあげる。


 

「今週末の日曜日。栞町のブックマークストリートがいいねって。そこでお昼を食べて、なんでも好きな服買ってくれるって言ってくれました。わたし、だんぜんクイーンズハートがいいなぁ。あ、お店の名前です。ふりふりのワンピースとかいっぱいあってすごくかわいいの」

 幾夜が黙っていると、察しのいい夢未は一度口をつぐみ、言い訳のように続ける。



「お父さんは、よくなってると思うんです。たまに優しくなってくれるし。いつかはかんぜんに、優しく戻ってくれるんじゃないかって」

 幾夜は瞳をすがめた。

 イギリスの古典文学を抱える細い腕。制服の半そでからのぞくあざは、まだ生々しい。

「そう思い続けて、いったい何年になる」

 思っていたよりずっと、低い声が出る。

 夢未が、ぎくりと身を震わせる。



「もうきみもじゅうぶん、自分で判断して動いていい年齢だ」

 言葉を選びながら慎重にとは思いつつ、それでも手厳しさを抑えることはしなかった。

「いいかげん見切りをつけて、自分の身を自分で守らないと、そのうち、手遅れになる」

 きつく歯を食いしばり、幾夜は夢未に告げる。

「大切な人生を、お父さんに奪われたままでいいのか」

「――……」

 ふいに、夢未の相好が崩れた。



「やめてっ」



 甲高く、鋭い声が遮る。

 傷むように両耳に手をあてて。いやいやをするように振り乱す。

「お父さんは、わたしの人生をとったりしません」

 悲しみと怒りの入り混じった瞳が幾夜に向けられる。

「小さい頃は、童話の中のお姫様のように幸せになりなさいって言ってくれた」

「……」

 幾夜と出会ったのが、彼女が十歳のころだから、それよりももっと、古い記憶だろうと思う。

 骨董品のような愛情の記憶が彼女の唯一の砦であり、皮肉なことに呪縛でもある。

 幾夜はため息をかみ殺した。

「いつか、ぜったい、戻ってくれるはずです。わたしのお父さんだもん」

 スカートを強く握り、細かなしわができる。

 幾夜の胸中にもまた、ぐっとつかまれたような、複雑なしわが寄る。

 先ほど購入した古典文学を持った手が、すっとテーブルを押す。

「今日はもう、帰ります。星崎さん、さようなら」

「待ちなさい」

 幾夜は手を伸ばすが、夢未は振り返らなかった。

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