ボクらはみんな生きてイクっ!~届けこの想い、大好きなキミに~

狐月 耀藍

第0話:ボクらはみんな、生きている

 ぞわり──

 その指の感触は、間違いなく、手慣れていた。

 そこが、秘密の・・・谷間・・だと、十分に理解した、指使い。


 ずっと気になっていた。

 当たっている感触から、手の甲だというのは分かっていた。

 だから、この満員電車の中では仕方がないのだと。


 周囲は年長の男性──ワイシャツやスーツ姿のサラリーマンばかり。

 高校生もいるけれど、やはり男性ばかり。


 時折、手のひらが包むようになでてくるときもあったが、人の出入りがあるときばかりだったから、自分の勘違いだと思っていた。


 でも、今は違う……!


「や、やめて……」


 かすれる声を絞り出すのが精いっぱいだった。

 一瞬、指の動きが止まる。


 ……だが、一瞬だった。


 何かを確信したように、さらに指が折り曲げられる。

 異性・・の体を十分に・・・理解・・した、おぞましいほど的確・・な、指使い。

 

 恐怖に凍り付く。

 思わず目を閉じる。


 やめてほしい、それが言い出せない。

 入ってこないで、その言葉が出ない。


 ただただ、恐怖と羞恥と嫌悪に支配されるのみで、声が出ない。


 ──だれか、たすけて……!


 つり革にしがみつくようにしながら祈る。

 涙がこぼれた、その時だった。


 そのひとは、ぶっきらぼうな天使に思えたのだ。




「オイおっさん。オトコのケツはそんなに触り心地がいいかよ」


 エアコンが効いていても暑くてたまらない、満員電車の中。

 唐突な言葉に、声をかけられた中年のサラリーマンと思しきワイシャツ姿の男の背筋がびくりと震える。


「な、なんだ君は!」

「オトコのケツはそんなに触り心地がいいかよ、っつってんだよ」

「お、男の……⁉ ば、馬鹿な、あの割れ目の感触は絶対に──」


 よほど衝撃だったのだろうか。男は、手首を掴まれた自分の手のひら──その中指・・を動かしながら叫んだ。

 だが、語るに落ちるとはまさにこのことであろう。高校生の少年は、男の胸倉を掴み上げた。

 周囲の乗客が、迷惑そうな顔をしつつも、二人からやや距離を取ろうとする。だが、満員電車では難しい。ひそひそ声が二人を取り巻く。


「は? っざけんなコラ! てめぇ、やっぱりやりやがったな! 仲間に手を出しやがって、この変態野郎!」

「誰が変態だ! め、名誉棄損で訴えるぞクソガキが!」

「ああ訴えろよ変態中年クソオヤジ! この枡田ますたゲンキ、逃げも隠れもしねえからよ! まずは鉄道警察に行こうぜ!」


 ゲンキが声を荒げた、そのときだった。電車が、少々急停車気味に減速して停車する。満員電車の車内の人々の姿勢が、進行方向に向かって乱れる。


「うおっ──」


 ゲンキも人ごみに揉まれるようにして姿勢を崩した一瞬を、ドアの開くタイミングを、中年男は逃さなかった。


「離せ、クソガキ!」

「あっ……待ちやがれっ!」


 ひと息早くホームへと逃げていく中年男。動き始めた人間の波に遮られながら、ゲンキもホームに飛び出していく。


「ちくしょう、待ちやがれ! どこに行きやがった!」


 降りるべき駅でもなかったのに、ゲンキはホームで見失った男を探す。発車を知らせるベルが鳴ってもだ。彼にとって、同じ学校に通う生徒を毒牙に掛ける男など、極刑に値するレベルで許せなかったのだ。


「くそっ、サラリーマンなんて卑怯だぞ、みんな同じような恰好しやがって!」


 だが、ゲンキの正義感が結実することはなかった。

 すぐに閉まってゆくドア。


「……あっ、し、しまった!」


 すぐに走り出す列車を、ゲンキは呆然と見送る。

 さっき、痴漢被害に遭っていたと思われる、ゲンキと同じ制服──パンツルックのブレザーを着た高校生が、閉まってしまったドアに張り付いてゲンキの方に手を伸ばすようにしていた。


「あいつ、泣いてたもんな……」


 変態オヤジに尻を触られ、体を震わせていた、あの小柄な高校生。ゲンキはワイシャツだが、同じ高校のエンブレムをあしらったブレザー、そして同じ色のストライプが入ったネクタイから、ゲンキと同じ備井そない商業高校の、同じ一年生だと分かる。


「……同じ学校の奴を助けられただけでも、良しとするか」


 身近な人の為に生きるべし──枡田ますた家の家訓の一つを、胸の内で繰り返す。自分が通学する学校の生徒は、広くとらえたら「身近な人」の範疇だろう。

 自分という人間がいたからこそ、あのちっこい奴を助けられたと思えば、今日、俺が生きて、ここにいた価値がある──ゲンキは、無理に自分を納得させようとして、気づいた。


「……鞄、電車に忘れた」


 しかも今日は、一限目から英語の単元テストなのだ。数日前に休み明け確認テストがあったばかりだというのに、だ。

 どうもゲンキの学級は確認テストの結果が芳しくなかったらしく、急遽、英語教諭のオニール先生による「追試を兼ねた」単元テストが実施されるのである。テスト返却によって絶望を突きつけられるうえに、さらに追加のテスト。おまけに鞄は電車の中。運命の悪意を感じるゲンキ。


「……くっそぉッ! ぜんぶあの変態オヤジのせいだっ!」


 地団太踏むが、もう遅い。次の電車を待つよりほかに、ゲンキにできることはなかった。




「……ゲンキくん、っていうんだ……」


 ゲンキがホームで地団太を踏んでいるのと同じころ、ゲンキと同じ制服に身を包んだ高校生が一人、満員電車の中で、体をドアに押し付けられるようにしながら、鞄を胸に抱えていた。


「ボク、助けてもらっちゃったのに……」


 満員電車の中、彼は足元に鞄を置いていたらしい。乗り降りする乗客たちに踏まれていた鞄を、宝物のように胸に抱える。もう少し早く気づいていたら、彼に渡せただろうにと、悔やみながら。


 ズボン越しに、嫌でも己の性別・・・・を意識させられた、あの指。

 あの、的確になぞってきた指のおぞましい動きに、背筋がぶるっと震える。

 もしもあの時、彼が追い払ってくれなかったら、どうなっていたのだろう。

 ふたたび涙がこぼれそうになり、ぎゅっと、彼が残した鞄を抱きかかえる。


 かすかに感じる、汗のにおい。

 男の人の、におい。


 制服は同じだった。ネクタイの色も同じだったから、きっと同じ一年生のはず。

 ちょっとだらしない、首元が見える緩んだネクタイを思い出す。


「……お礼、言いたいな……」


 鞄を届けたら、なんと言うだろうか。

 友達になってくれるだろうか。


『オトコのケツはそんなに触り心地がいいかよ』


 彼の言葉を思い出し、びくり、と体が震える。

 単純に、彼と・・同じ・・制服だったから男子・・生徒・・と判断した、ということなのだろうが、その言葉はズシンと胸に響く。


 自分が選んだ制服だ。それが「自分らしさ」だと思っているし、備井そない商業高校自体が、数種類のブレザーの中から制服を選択できるようになっている。もちろん、男女共用だ。だからこそこの高校に進学したのだし、そのこと自体には違和感も、もちろん後悔もない。

 けれど、痴漢の方がこちらの事情・・・・・・をよく分かっているように感じて、胸がざわめくのだ。


 だからこそ、もう一度会いたい。

 もう一度会って、お礼を言って──できれば、話したい。


 ああいう姿──打算なく誰かの危機を救おうとする姿を、「男らしい」というのだろうか。

 いや、それは性別など関係なく、あくまでも「ゲンキ」というパーソナリティがなせる業なのだろう、と首を振る。電車を飛び出してまで、犯人を追いかけたゲンキ。恐怖で固まってしまった自分と違って、彼はきっと、困った人を放っておけない人、正義感の強い人なのだ。


 だが、だからこそ、直接会って鞄を渡すのはためらわれた。


『オトコのケツはそんなに触り心地がいいかよ』


 彼が自分のことを知ったら、なんと言うだろう。

 世間一般に、男子・・生徒・・向け・・とされる制服に身を包む、自分のことを。


 痴漢に対し、いっそう憤慨してくれるだろうか。

 それとも……自分のことを奇異に見るだろうか。


 後者だったらどうしよう──それが怖くて、結局、胸に抱く鞄は駅員に託すことに決めた。


「……同じ学校なんだし、またいずれ、会うことだって……お話だって、きっとできるよね……?」


 ゲンキと同じ高校の制服を着た生徒──大梁おおばるユウは、ゲンキが車内に残した鞄を、あらためてぎゅっと胸に抱きしめる。


「……ゲンキ、くん……」


 ゆっくり、自分に言い聞かせて確かめるように、その名を口にする。

 同じ一年生なら、同じ校舎のはず。今まで会った記憶はないけれど、これからの学校生活、注意深く生活していれば、きっと会えるだろう。なにせまだ一年生なのだ。まだまだチャンスは──。


 膨らみを隠すために、硬く布を巻きつけた胸の奥が、熱い。

 心臓の高鳴りを、一拍一拍の鼓動を、振動を感じてしまう。


 ──ボク、こんなに胸をどきどきさせてる。


 ずっと押し殺してきた感情が、よみがえってきたかのようだった。

 自分という人間が「生きている」という、確かな感覚を覚える。


「ゲンキくん……」


 ユウは、湧き上がる感情に戸惑いながらも、胸に抱くゲンキの鞄に、そっと顔をうずめた。



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