第16話:ボク、二回も触っちゃったね

 駅で降りた二人は、バスには乗らず、歩いていた。

 金的ダメージによる下腹の不快感を抱えていたゲンキの、「今バスに乗ったら、酔って死にそうだから歩いて帰る」という言葉に、ユウが付き合う形で。


「あんなに、電車の中で笑わなくたって」


 ユウが隣を歩きながら、頬を膨らませていた。

 ゲンキは、そんなユウにまた、吹き出してしまう。


「だってそうだろ、笑うしかねえよ。あんなところであんなこと言われちゃったら」

「そんなに元気になるんだったら、心配して損したよ。ボクの心配料、100円くらいもらおうかな」


『……その、きっと、鞄じゃなくて、ボクの手だと思う。その……』

『ゲンキのおちんちんに、さわっちゃったの……』


「触ったってか、ユウの手の甲に当たっただけだっていうか……。きたない思いさせたかもしれないのに、あんなに深刻そうに言われたらさあ。しかも耳元でささやかれて、くすぐったかったのなんのって!」

「……だって、プライベートゾーンだよ? 大事な所でしょ? ほんとに、ボクのせいだって思ったから……」

「プライベートゾーンって、お前……。だいたい『おちんちん』ってなんだよ。チンコなんかよっぽどなにかあっても大したことないに決まってるだろ。……あ、毛をはさんだときは泣けるけどな。この前のソラタみたいに」


 そこでまたひとしきり笑ったゲンキは、相変わらず不機嫌な様子のユウに、笑い冷めやらぬまま続けた。


「男の急所っつったらアレだろ、金玉だろ金玉。お前も一度くらい金玉ダメージの強烈さ、体験したことあるだろ? オトコにうまれたら、コイツだけはほんと、どうしようもないからなあ」

「……そんなになるなんて、知らなかったんだもん」


 ふくれっ面のまま答えるユウに、ゲンキは真顔になる。


「……嘘だろ? 金玉ダメージのあの苦しさ、ホントに知らない? マジで? どうやって生きてきたんだ?」

「え……?」


 ゲンキの、まじまじと見下ろしてくる視線に、ユウは慌てて手や首を振った。


「ち、ちがうよ? ぼぼボクも知ってるって! げ、ゲンキが打ったのが、おちんちん……じゃ、なくて、え、えっとその……き、きん、た、ま? だったっていうのを、知らなかっただけって意味で……!」


 なぜか妙にうろたえるユウに、ゲンキはまた、笑いがこみあげてくる。


「びっくりさせるなよ、マジで金玉打つ痛みを知らずに生きてきた、うらやましい奴のかと思った」

「だ、だからいちいち笑わないでよ、知ってるよ! お、おなかが痛くなる、……んでしょ?」

「だろ? もうとにかくさ、電車の中ではマジで苦しかった」




 この公園の中の道を行くとショートカットで、この公園の先に、ユウの乗るバス停がある。ゲンキの家までは、まだまだ当分先だ。

 この小さな公園には二つしか明かりがなく、全体的に暗い。いつもは子供が夕方まで遊んでいるが、今日はもう、誰もいないようだ。


「……ゲンキ。ちょっと疲れちゃったから、休んでいかない?」


 ユウが、やや暗がりのベンチを指差した。照明からは少し離れていて、すこし、傷んでいるベンチだった。


「もうちょっとでバス停だろ? 行こうぜ?」

「ゲンキはこれからバスに乗るんだろうけど、ボクはほんとは、ここからが歩きなんだよ?」

「あ……そうか、そうだった。でも、そんなに遠くないだろ?」

「……ちょっと、ゲンキと話、したくって」

「話? ……ああ、思い出したのか?」


 ゲンキはスマホの画面を見た。時刻はもう20時を回っている。ユウにとっては、だいぶ遅い時間帯だろう。


「明日じゃダメか? ウチの人が心配するだろ」

「ゲンキが一緒に来てくれたら、多分心配しないんじゃないかな」

「おいおい、俺が帰るの、何時になるんだよ」


 冗談だよ、とユウは笑ったが、それでも、話がしたいという。

 五分な、とゲンキは釘を刺してから、ベンチに座った。




「もう、体調は、いいんだよね?」

「ああ、多分もうバスに乗っても大丈夫だと思う」


 照明から離れたこのベンチは、公園の周りを囲む桜の木によって周囲の建物の照明も遮られて、お互いの顔もよく見えない。

 やっと涼しくなってきたこの時間帯、すこし生ぬるく感じる風が、時折公園の中をゆるゆると抜けてゆく。


「……今日、その……ボク、二回も触っちゃったね」

「触った? 何に」


 ゲンキに尋ねられて、ユウはうつむき、ためらいつつも答えた。 


「ゲンキの、その……ぷ、プライベートゾーンにだよ」

「んあ? ……一回はさっきの電車の中で、じゃああと一回って、いつだよ?」

「ほ、ほら、……あのとき。公園の遊具から落ちそうになったとき」

「そうだったか?」


 ゲンキは思い返すが、あの時、金的など食らっていないはずだと、首をかしげる。


「ゲンキに引っ張ってもらって、膝枕みたいになって……。ボク、あのときすっごくどきどきした」

「そりゃそうだろ、落ちそうになったんだし」

「ちがうよ」


 ユウが元気を見上げる。それまでなんとなく空を見上げていたゲンキは、その気配を感じてユウを見た。遠くの照明の明かりが、ちょうどユウの目にきらめいて見える。


「ゲンキの体温を感じて……さ。すごく、どきどきしてた。ボクのすぐ目の前に、ゲンキの……って思ったら、ね……」


 ユウはすこしうつむいて頬をかいてから、またゲンキを見上げた。


「その後はあとで、また落ちかけて、ゲンキに抱きしめられて……」

「おいそこ。他人が聞いたら誤解を招くような言い方、やめてくれ」


 ゲンキは真顔になって言ったが、ユウはそんなゲンキに「誤解されてもボクは平気だよ?」と微笑む。


「ゲンキの胸って、こんなにごつごつしてたんだぁって」

「おい、俺が骨と皮ばっかりみたいな言い方だな、それ」


 ゲンキの抗議に、ユウはため息をついて答えた。


「違うよ、筋肉だよ」

「そうか? ……そりゃ毎日筋トレしてるからな! 短距離って、例えば俺だと200メートルだからたった20秒ちょっとしか競技の時間がないけど、その20秒間の姿勢制御のために、筋肉って大事なんだぜ!」


 それからしばらく、ゲンキの筋肉談議が続いた。

 約束の五分はそれであっさりと過ぎてしまったが、ユウはあえて何も言わなかった。ただ、楽しそうに筋肉の話を続けるゲンキの顔を、嬉しそうに見つめていた。

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