道徳:生きるということ編
あなたとわたしと、そして
第46話:ゲンキの天使になってみせるから
『遥ってひと、そんなにすごいんだ』
『ぜんぜん追いつけなかった、そんな奴が教えてくれたスタートダッシュだ。コツもけっこうつかめたし、絶対に新人戦では結果を出す』
『いいライバルなんだね』
『同じ短距離だし、確かにライバルだな』
『うん、がんばってね!』
『それで、来週の土日』
『うん、楽しみだね! 土と日、どっちがいいかな』
『来週の土日、記録会があってさ』
『記録会?』
『
『誰?』
『短距離のトップアスリート。いろいろ指導もしてくれるらしいんだ』
『いろいろおしえてもらえるってこと?』
『そうなんだよ、だからどうしても出たい』
『ゲンキ、来週って』
『分かってる、ごめん』
『だからさ、再来週! 絶対再来週は行くからさ!』
『こんなチャンス、滅多にないことだからさ!』
『だって、トップアスリートに直接会って指導もらえるなんてこと、普通ありえないだろ?』
『だから、どうしても出たくてさ』
『今度の土日の話、再来週じゃだめか?』
『再来週は絶対ユウに合わせる!』
『ユウ?』
『ユウ?』
『お~い』
『起きてるか?』
『ひょっとして、寝た?』
『分かってる、ごめん』に既読がついてから、もう二十分以上、ユウは沈黙したままだった。
すべてに既読はついている、だから目を通してはいるはずだ。
それとも、寝落ちしてしまって、画面は付きっぱなし、受信だけしているということなのだろうか。
ゲンキはため息をつくと、これを最後と決めて『おやすみ、ユウ』と入力すると、枕元にスマホを投げ出す。
その直後だった。
メッセージ受信の音が鳴る。
スマホを拾い上げ、SNSアプリを開く。
『ゲンキ、陸上、がんばりたいんだよね?』
ユウだった。
ホッと安堵する。たまたま席を外していたのだろうと考え、ゲンキはすぐさま返事を送った。
『県予選では悔しい思いしたから、新人戦でリベンジするためにも、絶対』
『そうだよね、がんばつてるもゆねゲンキ』
ファイト、というスタンプが貼られる。
ありがとう、というスタンプを返す。
『ざゃあ遊びに行くのは再来週だね、ざんてんだけどま』
奇妙な入力ミスに、ゲンキはくすっと笑う。この土日、勉強漬けで疲れているのかもしれない。『眠たいなら寝ろよ?』と送信する。
既読はついたが、その夜はもう、返信はなかった。
「おはよう、ゲンキ」
いつも待ち合わせる公園で、ユウが手を振っていた。
「おはよう。……週末の予定、ゴメンな」
「いいよ。ゲンキは陸上、がんばってるから」
そのかわり、来週の土日は、ボクに時間を使ってね?
そう言って、ユウはいつものように、ゲンキの左隣を歩く。
なんとなく、目の周りが赤いような気がしたが、にこにこしていて、機嫌はとても良さそうだ。
昨夜のSNSのこともあって、ゲンキは少し、後ろめたい思いがあっただけに、内心ホッとする。
――いつもより、香りが強い気がした。うなじから香る、あの甘い香りが。
「朝から珍しい組み合わせだな」
二人同時に教室に入ってきたソラタとマホに、ゲンキは素直な感想を述べる。
「聞いてくれよゲンキ!」
ソラタはゲンキに飛びつくと、オイオイと泣きまねをしながら訴えた。
「俺はちゃんと断ったんだ! 『一緒に登校してトモダチに噂とかされると恥ずかしいし……』ってな! そしたらなんて言ったと思う!?」
どこかで聞いたことのあるセリフだな――そう思いながらゲンキが生返事をすると、突然、ソラタはこの世の絶望を表すかのように、両手を大きく天井にかざすように開き、床にひざまずいて天井を仰いだ。そしてそのまま倒れ伏す。
その後ろでは、マホが、また
「よくそんな嘘をぺらぺらとしゃべれるわね。それ言ったの私。それに対して『オトコオンナのお前を連れ歩いたって何の自慢にもならないし、免疫もできたから、もうなにもこわくない』って言ったのがアンタ」
半目で言い放つマホに、早くも復活したソラタが指を突きつける。
「ふ、ふざけんなよお前! なんでこいつらの前だと急に狂暴になるんだよ、さっきはなにも言わなかったしキックもしなかったくせに! ていうか『ソラタくんは私と一緒じゃ嫌?』とか何とか言っ――」
ぼぐ。
今度は真正面から蹴り飛ばされ、無言で床にくずおれるソラタ。
「くだらないこと言ってないで、さっさと席に着きなよ」
頬を膨らませ――赤く染めて――マホはソラタを引きずっていく。
「……相変わらず、マホのキックの効果は抜群だな」
「そ、そうだね……。でも――」
ため息をつくゲンキに、ユウがひきつった笑みを浮かべる。
だが、マホを見ながら、ユウは「でも、マホ、楽しそう」とつぶやいた。
「た、楽しそう? いや、そりゃ仇敵をボコボコ蹴りまくってたら、楽しいかもしれないだろうけどさ」
「……敵?」
「敵だろ?」
「誰と誰が、敵同士なの?」
「ソラタとマホに決まってるだろ」
「どうして?」
「どうしてって、どういう意味だ?」
ユウはしばらく首をかしげていたが、「……なんでもないよ」と、小さく笑った。
「えーっ! この竜田揚げ、なんか味しみしみでしかもサクサクするんだけど! お弁当なのに! あ、もう一個いいよね!」
「駄目だこの大和煮! けしからん、人間を駄目にする! ホロホロで甘辛くてショウガが効いてて! ご飯がもっとあるうちに食うべきだった、おいゲンキお前の弁当のご飯寄こせ!」
「ざけんなお前ら、これはユウが俺のためにって作ってくれた弁当だぞ! ひと口だけって言うから味見を許可したっていうのに! おい、コラ! 返せ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、ユウが作ってきた弁当をつつく三人。
「ああ~、もうユウってキッチンの天使かなにかよね! このアスパラの豚肉巻きって、定番はベーコンだけど、これ違うよね。どうやって味付けしたの?」
「ゲンキお前、自分の弁当食ってりゃいいだろ。どうせ毎日同じ弁当で生きてきたお前だ、これからもそれで生きていけ。天使の弁当はオレたちがいただいた」
「バカ野郎、そんな俺を天国に引っ張り上げてくれるのがユウの弁当だっての! 俺はユウのおかげで生まれて初めて人間らしい弁当ってのを味わうことができたんだ! だから待て、食うな、返せ!」
「うるせえ、どうせこれからもゲンキは天使に弁当を作ってもらうんだろ? 今日くらい全部――」
ゲンキの手をかわしたソラタの手から、ユウがひょいと弁当箱を奪い取る。
「……え?」
――いつの間に? 一瞬、三人が固まる。
「だめ。ボク、ゲンキの天使だったらなるよ? でも、それ以外の人のための天使になるつもりはないから」
そう言って、ゲンキに弁当箱を渡す。
中身はすでに半分くらいに減っていた。
「ゲンキ、足りる? ボクのぶん、あげよっか?」
心配そうに見上げるユウに、ゲンキはハッとして首を振る。
「い、いやいや! そんなことしたらただでさえ少ないユウの弁当がなくなっちまうだろ! 俺はいい、これだけあれば十分だ!」
「ボク、ゲンキに食べてもらえるならうれしいから、構わないよ?」
「俺が構う! ユウの弁当、それっぽっちしかないのに、それをさらに減らせるか!」
大丈夫だから、とゲンキはもう一つ――本来の自分の弁当箱を取り出すと、まずはそれをものすごい勢いでかきこみだす。
「……ゲンキ?」
悲しそうな顔をするユウに、ゲンキは慌ててご飯粒を飛ばしながら叫んだ。
「俺は美味いものを、最後まで取っといて食う派だから!」
「……お腹が空いているときに食べた方が、美味しくないかな?」
「美味いもので〆れば、食い終わった後も味の余韻を楽しんでいられるだろ! ユウの弁当を後でゆっくり食えば、そのうまさを午後も楽しんだままでいられる!」
やはり、おおよそ味わう食べ方から最も遠い、口に放り込んで茶で飲み下すという平らげ方で母親の弁当を飲み込んでゆくゲンキ。
「ねえ……ほんとに、ゆっくり味わって食べてくれるの?」
「当たり前だ、ユウの弁当を急いで食うなんて罰当たりなこと、できるわけないだろ!」
「……そ、そうなんだ……」
ユウははにかんでみせたあと、がふがふと喉の奥に弁当を流し込んでゆくゲンキに身を寄せた。
「――だったら、いいよ? ボクのを、ゲンキの好きにシて? でも……」
ユウは、ゲンキの弁当箱から一つ、竜田揚げを取り出す。
「お腹に余裕がある間に、味わってほしいんだ。……ね、ゲンキ。はい」
あーん、と、ユウが指でつまんだ竜田揚げを差し出す。ゲンキは一度はのけぞったものの、おそるおそる、それに食いつく。
「……弁当なのに、サクサクだ」
「ふふ、よかった。おいしい?」
「……うめえ」
「うれしいな、ゲンキにおいしいって言ってもらえるの」
「ユウはほんと、天使だな」
「いいよ? ボク、ゲンキの天使になってみせるから」
そんな二人をまじまじと見つめていたソラタとマホは、しばらく互いに見つめ合い、またゲンキたちを見て、そして、自分たちの弁当を見る。
「……ソラタ、はい。さっき、くれって言ってた唐揚げ。仕方ないから、あげる」
「いらねえよ、お前の弁当なんかユウのに比べたら――」
言い終わる前に口に唐揚げを突っ込まれ、ソラタは目を白黒させる。
「うるさい、黙って食べてればいいの!」
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