第45話:ゲンキくんのこと、応援してるから

 木陰に移動したあと、休憩がてら、ゲンキはハルカの話を聞いていた。


「あのとき、たしかにあの組の上位三人は、最終的に決勝戦に残れなかったけど、自分はキミが最後まで走りきった、アレがすごく印象に残ってる。

 ――カッコよかった、ホントに」


 褒められること、それ自体は決して悪い気分ではない。むしろうれしいことだ。

 けれど、褒められているその内容が「コケた上に上位入賞も果たせないタイムだったはずの走り」だなんて、悪夢でしかない。

 ゲンキはむすっとしつつ、水筒を傾ける。とりあえず、このおしゃべりな奴に25メートルスタートダッシュで負けている現状が腹立たしい。


「え? 無理だと思うよ? だってゲンキくん、スターティングブロックスタブロの構えに癖がありすぎて話になってないもん。走るフォームはすごく綺麗なのに」


 思いっきり鼻っ柱を叩き折るようなことを真正面からニコニコ言い放つハルカに、ゲンキは少なくない衝撃を受けた。

 いや、今までにもスタートの姿勢については何度か指摘されたことがあった。けれど、それにしたって「話になってない」ってのはないだろう――ますますむかっ腹を立てるゲンキ。


「でも、50メートルではお前に負けてない」

「当たり前でしょ。女子が男子に、走力で敵うわけないじゃない」


 ハルカはあっけらかんと言ってみせた。ハルカの頭の後ろ――ポニーテールにした髪が、その動きに合わせてぴこぴこと跳ねる。


「中学生のころならまだしも、高校生にまでなっちゃうと、肉体的な差ってのはもう、どうしようもないもん。自分だって、そこは相当苦しんだんだから。トレーニングの質も量も負けてないはず、なのに今まで勝てた相手に勝てなくなる悔しさ、ゲンキくん、分かる?」


 ハルカはニコニコしているが、しかし、そんなにもあっさりと言ってのける精神力の強さに、ゲンキは舌を巻いた。


 自分ならどうだろう。努力は負けていないはずの相手に、ある時を境に勝てなくなるとしたら。

 それが、努力の質や量のせいではなく、性別による肉体性能の差から勝てないのだ、と理解してしまったら。


 あの、転倒したあと――自分より後ろを走っていたはずの連中が、やすやすと自分を抜いていく――あの悔しさ、情けなさ。


「だから、自分はあのとき、最後まで走り切ったゲンキくんがさ、カッコいって思ったの。きっとつらかっただろうけど、最後まであきらめなかった姿に」


 ハルカは、笑いながらレモン風味の塩飴を差し出してくる。


「まさか強化練習会で会えて、しかも同じグループで、一緒に練習できるなんて思わなかった」


 あれから、記録会とか合同練習会とかで、ゲンキくんを探したんだよ? と笑いながら。


「……しばらく、捻挫ねんざでまともに走れなかったからな」

「今はどうなの?」

「もうばっちりだ」


 だったら、この強化練習会でまずはスタートを改善しようよ、とハルカは笑った。


「……お前は、合宿組か?」

「残念だけど、日帰り組。ゲンキくんは?」

「……同じだ、日帰り組」

「そっか……。新人戦で結果を出して、お互い、冬の強化選手に選ばれたいね」


 ハルカはそう言って笑うと、ペットボトルのキャップを開けてラッパ飲みする。

 健康的に日焼けしたハルカの喉元が動くさまを見て、つい、ユウを思い浮かべてしまい、ゲンキは慌てて首を振ってイメージを振り払う。


「……お前は男に迫るくらいだ、次は絶対選ばれるだろ。俺は――女に負けてるようじゃ、無理っぽいな」

「そういう言い方、好きになれないよ。さっきも言ったけど、ゲンキくんはスタートを変えたら絶対に記録、伸びるよ?」

「そんな簡単に――」

「スタートで0.5秒伸びれば、記録がそのまま0.5秒縮むんだよ? 県予選で出せていたかもしれない記録が23秒台前半だったとしたら、22秒台が見えてくるんだよ? ――ううん、もしかしたらトレーニング次第では、半年後には21秒台だって夢じゃなくなるかもしれない。やるしかないって思わない?」




 日曜の夕方、だいぶ暗くなった道を、駅まで歩く。


「そんな急にタイムが伸びるなら、みんないつだってフォームを変えるってば。新人戦までにモノにしようよ」


 スタートのフォームを改善すれば、21秒台も見えてくる――その言葉はあまりにも魅力的で、だからゲンキは結局、この強化練習会の二日間の多くを、スタートダッシュのフォーム改善の練習に費やした。


 ハルカはゲンキのフォームの改善点を、自分の練習に打ち込みながら、根気強く指摘し続けた。

 最初は違和感しかなかったフォームの改善も、この二日間の練習が終わるころには、どうにか形になってきていた。


 もちろん、形を変えたからと言って、それが即、記録向上につながるわけではない。むしろ記録は、あからさまに悪化した。

 けれど、フォームの変更中は、それまでと違う筋肉を使うことになる。そのせいで一時的に記録が落ちることは、陸上を続けている者ならば常識だ。

 ゲンキは、何度も繰り返し、飽きることなく練習に付き合ってくれたハルカに感謝しつつ、フォームの改善に努めた。


「……二日間、ありがとな」


 ゲンキは頭を下げ、そして、聞いた。

「でも、どうしてこんなに、俺の練習に付き合ってくれたんだ?」

「これで新人戦でゲンキくんが自己ベストでも出したら、なにかおごってもらうつもりだったから。出世払いってやつ」

「おい、それって――」

「楽しみだなあ、わたしね、セブンティーワンのアイス、チーズベリー味が好きなんだ!」


 そう言って笑ったハルカは、駅のバスターミナルで立ち止まると、くるりと振り返った。


「――なんてね。わたし、あのとき、陸上、もうあきらめようとしてたの」

「あきらめようとしてた? そのスタートダッシュがあるのに?」

「わたし、これでも中学の時は強化選手だったんだよ?」


 中二までは、男子にだって負けてなかったんだよ――そう言って笑うハルカ。

 中二までは――それはつまり、今はもう、敵わないということなのだろう。


「あのときまで、――ゲンキくんを見るまで、わたし、もう陸上、やめようって思ってたんだ。高校入ったら、男子のスピードにもう、全然ついていけなくて。もうだめかも、って思ったら、記録も伸びなくなっちゃって、強化選手にもなれなくて。

 ……県大会が終わったらね、部活をやめようって思ってた」


 ハルカは、笑顔で語り続ける。

 だが、ゲンキには、その笑顔がとても痛々しいものに感じられた。


 夢破れ、希望が失われ、それでもなお走り続けるのは、本当につらいことだというのは、ゲンキにも想像がつく。

 だがハルカは、それを乗り越えて今ここにいて、強化練習会にも参加したのだ。


「――そんなときに、最後まであきらめなかったゲンキくんを見たの。そのとき思ったんだよ? こんなにかっこいい人が、同じ高校二年生なんだって」

「……かっこよくなんかないって。俺は無様にコケただけで……」

「足を引きずりながら、それでも最後まで全力を尽くそうとする人って、かっこいいよ? 少なくともゲンキくんは、あのときのわたしを誰よりも力づけてくれた、かっこいい人だった」


 ハルカは、くるりと背を向けた。

 そういえば――ゲンキは、今さら気づいた。

 練習中はずっとポニーテールにしていた彼女だが、今は髪を下ろしていたことに。

 セミロングの髪――尖端がゆるくウェーブがかったその髪から、いかにもな女性らしさを感じる。


 ――こいつ、そういえば女子だったんだよな……。

 そう思った瞬間、白いTシャツの下に透けて見える背中のブラの紐が急に意識されてきて、ゲンキはどぎまぎしてしまう。


 この二日間、ハルカは黒っぽいTシャツだったから、下着が透けて見えることなどなかった。

 今着ているTシャツ――『思い込んだら一直線!』という、筆で殴り書きしたような文字が印象的で今まで気づいていなかったけれど、気づいてしまうと、ブラの紐の、その留め具の部分が盛り上がっているところにまで意識が向いてしまう。


「――ね、ゲンキくん?」


 くるりとふたたびゲンキのほうに振り返ったハルカが、にっこり笑った。

 急にハルカに対して感じ始めたことを見透かされたかと、ゲンキは思わず息を呑む。


「ゲンキくんって、来週の土日の記録会も参加するよね?」

「記録会? ……いや、参加しないけど」


 ゲンキは首を振った。

 なぜなら、来週の土日の記録会――それは隣の市の大学のサークルが主催する、小規模のモノだからだ。トラック競技もフィールド競技も、基本的な一部の種目しか計測しなかったはずだ。

 だからゲンキの部からは誰も出る予定がなかったし、ゲンキもユウと遊びに行く約束ができたのだ。


 ところが、そんなゲンキの言葉に、ハルカは目を見開きゲンキに詰め寄った。


「違うって、確かに規模は小さいけど、そんなことより桐生きりゅう選手が来ることになったんだって! あの桐生きりゅう亮太りょうた選手だよ!? 大学のOBなんだって! トレーニング法とかのアドバイスがもらえるらしいよ! 参加費さえ払えば当日受付もしてくれるし、一緒に参加しようよ!」


 ハルカの言葉に、ゲンキの気持ちが大きく揺らいだ。


 桐生きりゅう亮太りょうた選手と言えば、先日、日本記録を更新した、短距離界における期待のアスリートの一人だ。次のオリンピックでの活躍も期待されている。

 日本記録保持選手が来て、しかもアドバイスをもらえる――そんな機会は滅多にない。間違いなく参加する価値はあるだろう。


 ――でも、その日は、ユウとの約束が……。


『ボク、ゲンキのこと、応援してるから』


 ためらうゲンキの脳裏に、ユウの笑顔が浮かぶ。

 マネジャーとして、練習のサポートを名乗り出てくれたユウ。


 ――ユウは、俺のこと、応援してくれてるんだよな? だったら……きっと分かってくれるはずだ。

 

「……そう、だな。分かった。俺も参加してみるよ」

「うん! わたしもゲンキくんのこと、応援してるから! 一緒にがんばろうね!」


 ハルカは嬉しそうにゲンキに一歩近づくと、すこし、緊張した面持ちで、けれど笑顔で尋ねた。


「……ゲンキくんって、ひょっとして今、フリーだったりする?」

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