第44話:ゲンキのこと、応援してるから
ユウの手にあったペットボトルが落ちる音を、どこか遠くの出来事のように感じながら――ゲンキはそっと、体をかがめる。
ユウの吐息が、唇にかかる。
それはおそらく、ユウも同じだったのだろう。
かすかに、口元が絞られた――そんな気がした。
――が、すぐに、わずかに口元が開かれる。
奥に、ちいさく、舌が見えた気がして、ゲンキは思わず唇を寄せ――
けたたましい犬の鳴き声に、ゲンキもユウも飛び上がった。
鳴き声の方を見ると、二人に向かって一匹の小柄な黒い柴犬が盛んに吠えついている。
引きずられているリードの先に、飼い主はいない。
「……ゲンキ、あの、ぼ、ボク、犬、苦手で……!」
うろたえるユウをゲンキはなだめながら、ユウと犬との間に立ちはだかった。
「リードを引きずってるんだから、飼い主の手を振り切ってきたんだな。まったく、面倒くさい」
ゲンキは犬など別に怖くもなんともない。が、かといって蹴り飛ばして追い払うような真似もしたくない。
ゲンキの背中で小さくなっているユウに、オトコなんだからもう少ししっかりしろよ、と苦笑しながら、どう対処すべきか思案していたときだった。
「すみません、うちの犬が……!」
走ってきたのは、若い男性だった。
「こら、クロ! すいません、怪我とかしてませんか」
「いや別に……」
ペコペコと頭を下げる若い男の人に、ゲンキは文句の一つも言ってやろうと思ったとき、後ろからお腹を大きくした女性が息を弾ませながらやってきた。
「ごめんなさいうちの犬が……お怪我はありませんか」
二人して頭を下げられ、ゲンキは文句を言いづらくなってしまった。
そんなゲンキに代わって、ユウが心配そうに声をかける。
「いえ大丈夫です。……それより、お腹に赤ちゃんがいるんですよね? 走っても大丈夫ですか?」
……相変わらず、ゲンキの後ろに隠れながら。
女性は、ゲンキの後ろに隠れているユウのほうに笑顔を見せて答えた。
「ええ、大丈夫よ、ありがとう。少しは運動しないとって思って、ウォーキングがてらに犬の散歩をしてたんだけど……。驚かせたみたいで、ごめんなさいね」
「いえ、ちょっと、びっくりしただけで。
二人で頭を下げながら去っていく若夫婦に、ユウがポツリとつぶやいた。
「いいなあ……。ボクも、あんな……」
「なんだ、あんな嫁さんが欲しいってか?」
「……ゲンキ、言い方がいじわるだよ?」
二人でひとしきり笑い合う。
笑い合ったあと、ユウが、少し吹っ切れたように言った。
「……ゲンキ、明日、強化練習会なんでしょう?」
「そう、だな」
「じゃあ、早く寝ないといけないね?」
「……まあ、そうだな」
「ゲンキ、部活がんばってるもんね。ボク、応援してるから」
ユウは、ゲンキの腕にぶらさがるように飛びつくと、くりくりした目をきらきらさせて聞いた。
「ねえ、ゲンキ。ボク、部活のお手伝いに行っていい?」
「お手伝い?」
「うん……えっと、その……マネジャーの真似事みたいなことくらいしかできないけど、その……ほら、記録、つけたりとか」
「ユウは勉強しなきゃダメだろ」
「とっくに定期考査も終わって、あとは夏休みなんだから。……だめかな?」
「いや、そりゃ……」
よく言えば個人主義で主体的、悪く言えばマイペースで奔放な陸上部員たちのデータ取りにいつも嘆いているマネジャーの
「……そりゃ、
「だったら月曜日、陸上部の顧問の先生に聞いてみるから、一緒について来てくれる?」
うなずくと、ユウは歓声を上げてゲンキの左腕をぎゅっと抱きしめた。
「じゃあ、また月曜日! ボク、ゲンキのこと、応援してるから。練習会、がんばってね!」
そう言って、ユウはいたずらっぽく微笑みながら、唇をそっと突き出してみせた。
ちろりと、舌を見せながら。
「……ああ、また月曜日に」
ユウの胸の、柔らかいのか硬いのか、妙な感触に戸惑いながらも、ゲンキは右手でユウの頭をつかんでわしわしとなでる。
「ちょっと、ゲンキ……やだ、くしゃくしゃになっちゃう」
身をよじってみせながら、けれども笑顔を向けたユウは、まっすぐにゲンキを見つめて言った。
「……あのね? それからね、ゲンキ……また、お弁当、作って、……いいかな?」
「弁当?」
ゲンキは首をかしげる。
「いや、えっと……」
「……迷惑、だった?」
迷惑とかではない。
先日、ユウはゲンキの分を作ってきてくれて、それは確かにとても美味しかった。
けれどあの日以来、それが原因の一つにもなって、しばらく関係がぎくしゃくしてしまった。
ユウの手間にもなるし、またあんな面倒なことになるのは勘弁だ――
そう思ったゲンキだったが、ユウがじっと、すがるような目で見上げてきているのがどうにも気になって仕方がなくて、つい、「作ってもらえるなら、嬉しい」と返事をしてしまった。
「……よかった! ボク、月曜日からまた、ゲンキのためにがんばるよ! なにか、好きなおかずがあったら教えて? ボク、何だって作るから!」
知らないものだって、この土日で練習するから大丈夫だよ――ユウはそう言って、胸の前で両手を握ってみせた。
「いや……ユウが作りやすいものでいいよ、俺は好き嫌いなんてないから」
「じゃあ、せめて聞かせて? お肉がいい? それともお魚? お野菜?」
「肉中心だと嬉しいけど、別になんでも」
「わかった、うん、じゃあ、お肉中心で考えてみるね!」
ユウはひどく嬉しそうに、楽しみにしていてね、と言った。
「……なんでそんな、嬉しそうなんだ? 飯を作るなんて、めんどうだろ?」
ゲンキの素朴な疑問に、ユウは首を傾げ、そしてまた、笑顔になって答えた。
「好きなひとのためにお料理するのって、とっても楽しいよ?」
晴れ渡った空の下で、色とりどりのトレーニングウェアに身を包んだ高校生が、それぞれの種目ごとに分かれて練習を行っている。
ゲンキも短距離選手の一人として、練習に参加していた。
ここでは男も女も関係ない。記録を出せる奴が正義で、出せるようになるための技術やトレーニングを学び、それを持ち帰ることができる探求者が、明日の正義を背負うことができる資格を持つ。
ゲンキは、来年のインターハイで上位に食い込むために、トレーニングに励んでいた。もちろん、参加している者の思いはみな同じだ。誰だって、憧れの全国大会のトラックを踏みたい――そう考えて参加している。
そうした、ゲンキと同じ短距離勢に、25メートルまではだれよりも早い、驚異的な走り出しで圧倒する者がいた。
「
「トップって言ったって、25メートルまでだから。やっぱり壁は厚いね」
今も、ゲンキが追い付けなかった相手――
「ちく、しょう――また、まけ、た……っ!」
「自分も、プライドはあるからね」
ハルカは、芝生に倒れているゲンキのそばにしゃがみ込むと、濡れタオルで汗を拭きながら笑った。真っ黒なスパッツに浮き上がって見える太ももの割れ方に、迫力がある。
「ゲンキくん、だよね。インハイの県大会の走り、見てたよ?」
「……そりゃどーも」
他校の人間に覚えられているというのは、光栄なのかもしれない。だがゲンキは、あの県大会での失態は、とても覚えていてほしくなかったものだった。
ゴール手前、約20メートル。
あの熾烈な争いの中で、足がもつれて転倒――少なくともあの集団では三位争いくらいには加わっていたはずだったのに、最下位でゴール。
小学生の徒競走でもなし、敗者に温かな声援など無い。
あの時の衝撃、悔しさ、気まずさと言ったらなかった。足を引きずりながら、それでももう一度走り出し、ゴールラインで再び倒れ込んだゲンキを待っていたのは、同じ学校の先輩、後輩たちの失望した顔、顔、顔。
「お前、あそこでコケるかよ」
「長距離のスタートの時ならともかく、なんで専用コース走るだけなのにコケるんですかね?」
――あの時の悔しさを、今、思い出させるなんて。
ライバルは潰しておくとでも言いたいのか――そう思ったゲンキに、ハルカはニッと笑ってみせた。
「あのとき、キミ、23秒台前半あたりだったのは間違いなかったと思うよ? だってあのとき、君の後ろにいたはずの3位が、23秒45だったから」
数字がなかなか印象深かったから覚えてる、とハルカは笑ってみせた。
しかし23秒台前半――それでは、どうあがいても全国大会には出られなかっただろう。記録の壁の厚みに、ため息が出そうになる。
「それよりさ、ああいうとき、最後あきらめちゃって、歩いて終わるか、コースを外れて棄権するっていうこと、多そうじゃない? キミ、立ち上がって、めちゃくちゃ全力で走ってたでしょ?」
――そうだった。一年のときには出られなかった県大会。せっかく出られたチャンスをふいにして、泣きたい気持ちだった。それを噛み殺して、最後、ヤケクソでゴールした、あのとき。
「――カッコよかった。ああ、このひと、強いなあって」
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