第43話:胸がね?ぽかぽかするんだよ?

「……で? 話ってなんだ?」


 ゲンキは、コーラのキャップを開けると一気に三分の一ほど飲んだ。

 ユウはミルクティーのペットボトルを両手で持ったまま、黙っている。


 話があるから、ゲンキを待ちたい――ユウはそう言って、あの図書室で待っていた。とんでもない場面に出くわしてしまったが、それ自体が、ユウの残った理由でもあるまい。


 そう思っていたのに、ユウは電車でも、バスでも、当たり障りのないことしか話題にしなかった。

 ユウが降りる停留所が近くなって、ようやく、「お話したいこと、あって」と言ったからゲンキも一緒にバスを降りたというのに、ユウはベンチに腰かけたまま、黙っている。

 例の、街灯のないベンチで。


「ユウ、話があるんじゃなかったのかよ? ないなら俺、帰るぞ?」

「……あの、ね?」


 ユウが、すがるような目で見上げてきた。


「ぼ、ボクね? ……さっき、見られたみたいに……」


 さっき見られたみたいに――つまりアレの話かと、ゲンキは納得する。そりゃ言い出しづらかろう。


「ボク……あのね、この三日間……。ゲンキからね、がんばって、距離を置こうと思ったの」

「……はあ?」


 さっきのコトと距離を置くのと、どうつながるかが分からず、ゲンキは顔をしかめる。

 ユウは、そんなゲンキの顔を見て一瞬うつむいたが、再び顔を上げると、まっすぐゲンキを見つめた。


「ボクはゲンキのトモダチ……だよね?」

「当然だろ」

「……ゲンキは、ボクのこと、……好きでいてくれてるんだよね? あ、……ええと、トモダチ、として」

「もちろん」


 即答で返すゲンキに、ユウは、小さく笑った。


「……ボクもね、ゲンキのこと……好きだよ」


 ゲンキにとって、その言葉は想定内だった。だから、うなずいてみせる。

 ただ、ゲンキの言う「好き」と、ユウの言う「好き」の中身は、違っているだろうということもまた、織り込み済みで。


 ゲンキがうなずくのを見て、ユウは寂しげに微笑んだ。

 伏せた目、傾けた首に、ゲンキは妙な胸苦しさを覚える。


「――でも、ね? ゲンキにとって、ボクはやっぱりトモダチで……。きっと、ボクはどこまでいってもトモダチ……なんだよね?」

「トモダチはトモダチだろ? ユウがトモダチをやめたいって言うなら別だけどさ」

「……ボクに、そんなこと、できると思う?」

「合わなきゃ仕方ないだろ? 俺がいくらトモダチだと思っててもさ、ユウが我慢できないならしょうがないからな」


 ユウはゲンキの言葉に、小さくため息をついた。視線を外し、ベンチの背もたれに身を預ける。


「ゲンキってさ、ボクのこと、きらい?」

「なんでそうなるんだ?」

「ときどき、ゲンキのこと、分からなくなるよ。ボク、ゲンキのトモダチをやめたいなんて、いつ言ったの?」

「言ってないけど……俺のトモダチをやめたいと考えてる可能性って話だろ」

「そういうときは、可能性って言わないでよ。『おそれ』っていうんだよ?」


 そう言って、ユウはそっと、ゲンキの肩に身を寄せる。


「ボク、ゲンキのこと好きだって、ちゃんと言ったよ……? どうして、トモダチをやめたいなんて言うと思うの?」

「いや、だから可能性の――」

「ねえ、ゲンキ」


 ゲンキの肩に頭を乗せ、正面を向いたまま、ユウはゲンキの言葉を遮った。

 伏せがちの目が、その長いまつ毛が、寂しげに揺れるのをゲンキは見た。


「ゲンキは、ボクに、ゲンキのこと、きらいでいてほしいって思ってるの?」

「……そんなこと、言ってないだろ?」

「じゃあ、どうして、ボクがゲンキのトモダチをやめたがってる、なんてことを考えるの?」


 ユウが、肩を寄せたまま、顔をゲンキに向ける。

 暗い公園で、けれど確かに、ユウの瞳は潤んでいた。


「ボクはゲンキが好き。……ゲンキも好きって言ってくれるけど、でもゲンキ

にとってボクはやっぱりトモダチで……。

 ――だから、ボク、つらくて、くるしくて、それで……」


 ゲンキから、すこし、離れてみようと思ったの――ユウはそれだけ言うと、また前を向き、肩に寄せた頬を、ゲンキの肩にすりつけるようにした。


「……でも、だめだった。ボク、いまさら、ゲンキと離れるなんて考えたくない。ゲンキと一緒にいたい。……ずっと、ずっと」


 ベンチの座面に置いていたゲンキの手に、ユウの指が触れる。

 ユウは、触れてはいけないもののように手を引っ込めかけて、しかし、ゆっくり指を近づけた。


 そっと、ユウの指の先が、もう一度、ゲンキの指先に触れる。

 ゲンキの手は、微動だにしない。


「……ボク、ね? ゲンキのそばにいるとね? 心が苦しくてたまらないんだ。ゲンキの声が聞こえるだけで、胸がしめつけられるみたいに。

 ――でも、ね?」


 そっと、ゲンキの左手に、ユウの右手が、指が交互に絡むように、重ねられていく。


 ゲンキは、ユウの首筋がいやに熱く火照っているのを感じた。

 ユウが自分の手の甲に、ユウ自身の右手の手のひらを乗せてゆく、その過程で、ユウの首筋がどんどん火照ってくるのだ。

 その脈動すら感じられるほどに。


「――ゲンキのそばにいるだけで、すごく安心できるんだ。ボクの胸がね? ぽかぽかするんだよ? ゲンキに見つめられるだけで、すごく、すごく、きゅってなるんだ」


 その言葉に、ゲンキは、ユウに目を向ける。

 ユウは、ずっと、ゲンキを見上げていたようだった。


 目が合った瞬間、ユウのまなじりから、雫がこぼれ落ちていく。

 その口元が、ちいさく、ほころぶ。


「だから、こうして、ね? 目が合うとね? ――ボク、すごく、胸が切なくて、でも、とっても、うれしいんだよ?」


 ユウが重ねた手に、力をこめる。


 体の性と、心の性――ゲンキの脳裏に、担任の先生の言葉が再生された。


 ――やっぱりユウは、そういう奴だったのか。


 このところ、ゲンキは自分でもわざとらしいくらいに「トモダチ」を強調してきた。

 ここ最近、ユウはぐいぐいと距離を縮めてくるように感じていた。だから、ユウとの距離を一定に保とうとして、ゲンキはあえて「トモダチ」を連呼してきたのだ。


 だが、それは同時に、自分への戒めでもあった。


 あの保健室で見た白い裸身と、その同じ日に見たユウの白い足、白いうなじ。それが妙に重なってしまって、自己処理の際にもユウの顔――その微笑む表情が、切なげに吐息を漏らす表情が、脳裏にちらついてしかたがないのだ。


 ユウの足、うなじ――あんなに白いのなら、ユウの体も白いのだろうか。あんなにすべやかな足をしているのなら、全身もそんな感じなんだろうか――


 白く、華奢なユウの裸体を想像してしまうとき――それを美しいと思い、触れてみたいと思ってしまうとき――自分の、「性愛対象としての性」がぶれるのを、強烈に自覚してしまうのである。

 それは、「恋愛対象としての性」のぶれにもつながりかねない。


 ゲンキは、それを恐れていた。

 ――恐れていた、はずだった。


「――ユウ」


 ユウの潤む瞳が、街の灯を映して揺れている。


 今まで、こんなにもストレートに「好き」を求められたことがあっただろうか――

 ゲンキは、激しく鳴り響く心臓の音を気取られやしないかと、そんなことを気にしてしまう自分に気づいた。しかしまっすぐ見つめてくるユウから目をそらすことができない。


 ユウの指に、さらに力が込められるのを感じる。


 ユウが、こんなにも、自分を欲してくれている――そう感じてしまったとき、ゲンキは、右手をユウの左の首筋に伸ばしてしまっていた。


「あ……」


 わずかに見開かれた目、その吐息。

 しっとりと汗を感じる、柔らかな肌。


 ユウの左頬に指を這わせ、少しだけ、ユウの顔をこちらに向けさせる。


 ――抵抗は、なかった。


 ユウのまぶたが、ゆっくりと閉じられていく。

 艶のあるやわらかそうな唇が、わずかに震える。


 そんなユウに、ゲンキの胸は早鐘を打ち続け、轟々と耳鳴りが止まらない。


 ユウの手にあったペットボトルが落ちる音を、どこか遠くの出来事のように感じながら――ゲンキはそっと、体をかがめる。

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