第34話:ゲンキだから、好きなんだよ
「はい、ありがとう。
性的指向――
性自認――
ジェンダー表現――
「人は、生まれながらに持っている性と、そして、生きる中で身に着けた性役割、そして好みがあります。生まれながらに持っている性は、これは変えようがありません。手術をして器官を取ったりつくったりしても、どうしようもないものです」
けれど、と先生は続ける。
「心の性は、その成長過程の中で、揺れることがあります。いろいろな形があるんです」
――男の子だけど、男の子が好き。
――女の子だけど、女の子が好きで、けれど男の子も好きになれる。
――男の子だけど、女の子と一緒にいた方が安心できる。
――女の子だけど、男の子としてふるまう生き方の方がしっくりくる。
――男の子だけど、料理や刺繍、ひらひらした服装や、かわいらしいものが好き。
――女の子だけど、活動的な服装、男性的な言葉遣い、虫取りなどの遊びが好き。
それぞれ性的指向、性自認、ジェンダー表現と呼ばれる、自分の「心の性」のありようであり、どんな生き方を選択しようとも「ひとりの人」として認められるべき「生き方」だと、
「世の中には、『女らしい生き方』を好む男の子もいれば、その逆もあるでしょう。
生まれつきの性は女性で自認する性も女性であっても、好きになる人は両性、好みの服装は男装、そんな人もいるでしょう。
――それでいいんです。ひとは、そのひとが選択した生き方をすればいいんです。そしてそのひとらしさを、わたしたちはありのまま受け止める。それが本当の、多様性を認める社会です」
先生の言葉は、筋が通っているようでいて、しかしゲンキには、難しく感じられた。男に生まれたからには男らしくあれ――それが、ゲンキの両親の望む「ゲンキらしさ」だった。
シンプルに「男らしい男」の生き方を選択する――それのどこがいけないのだろうか。
「
宇照先生は、
「
だったら、と首をひねるゲンキに、宇照先生は男、女と黒板に書いた。
男、と書いた下に、棒人間を描く。
「
「……よく分かんないスけど、男でいいです」
ゲンキの返答に、宇照先生はにっこりと笑ってみせた。
「多分、
「トランスジェンダー……」
「そうね。ありがとう、
「トランスジェンダー。テレビで見るタレントさんのなかにも、何人もいますね。それに対して、自分の肉体的な性に対して、指向と、自認と、そして表現が
「……ああ、テレビで見たことある。なんか、CMとかでも。でもトランスなんてほとんどいないんだろ?」
そう言って、ソラタが公共広告CMロゴの発音を真似してみせる。
「そうね、確かに少数派でしょうね。でもね、
一呼吸おいてから、宇照先生は
「
そう言いながら、黒板に先ほど書いた男女の文字の間に棒人間を描き加える。そして、男女それぞれの字から、それぞれ矢印を、描き加えた棒人間に向けて伸ばした。
「それまでの生き方を窮屈に感じたとき、自分らしさを求めて別の生き方を取り入れることができ、そしてそれを誰もが認めることができる社会――そんな世の中に、いまは少しずつ進んでいます。法整備はまだまだこれからですけれど、でもいつかきっと、誰もが本当の意味での自分らしさを解放して、それをみんなが認めあえる社会が、時代が、やってきます」
宇照先生は、力強く言い切った。
「みなさんが誰かを好きになるとき、その人が
もちろん、それが前提でしょうけれど、でも本当に、それだけが理由ですか?」
ぽかんとしている大部分の生徒たちを見回して、そして、微笑んだ。
「
ゲンキは、先生の言葉が、やはりよく呑み込めなかった。
けれど、先生の言いたいことは、なんとなく、分かった気がした。
『その人だから、好きになった』
ゲンキにとって、それが同性であれば、「トモダチ」に。
それが異性であれば、おそらく「カノジョ」に。
もちろん、ゲンキにとって「好き」の意味は、相手の性によって大きく変わる。言葉に出せば同じ「好き」でも、性が違えば、魅力のポイントも変わってくるからだ。特に肉体的な魅力は、基本的にはその肉体的性差に大きく依存するだろう。ゲンキ自身、女性の、大きく弾むふくよかな胸を好んで鑑賞するように。
けれど、その人を好きになる―― 一緒にいて楽しい、安心できる、共に高め合いたいと願う――そんな観点ならば。
肉体的な性別だけを理由にして、その人を好きになるわけじゃない。
その人の「その人らしさ」を気に入ったから、好きになるのだ――
先生は、そう言いたいのではないだろうかと。
ユウの方を見る。
ユウも、ゲンキを見た――というより、ユウの方が、ゲンキを見ていた。
『ボクも、ゲンキだから、好きなんだよ』
手のひらを自身の胸に指し、次にゲンキを指してみせ、そして、目を閉じ微笑みながら手のひらを胸に当ててみせる。
口をゆっくりと、そのように、動かして見せながら。
『――ね?』
ゲンキは小さく笑った。
ユウは、変わった奴だ。変わった奴だけど、いい奴だ。それは間違いない。
ユウに向けて、
その笑顔を見届けて前を向くと、宇照先生はゲンキに向かって微笑んでみせた。
「人は、きっと、だれかを好きになります。それは、異性かもしれないし、同性かもしれません。あるいは、どちらだって好きになるかもしれません」
もちろん、誰も好きにならない生き方だってあります、とも付け加える。
「あなたたちがどんな心を持つ人と出会い、どんな人を好きになるのか。それは先生にはわかりません。ただ、忘れてほしくないのは、人の心のありかたは人それぞれで、大切にしていることも人それぞれということ。
自分とは違う考え方の人がいる、自分の周りの人たちと比べて変わっている人がいる――でもそれは、
ゲンキは、知らず知らずユウの方を見た。やっぱりユウは、ゲンキの方を見ていた。
変な奴、変わった奴――でもこの三カ月、そしてここ最近でさらに分かった「ユウ」という奴。
今までのゲンキの「当たり前」からすれば、ユウというトモダチは、ずいぶんと変わった人間だ。
けれど、この何日かで、自分という存在の「当たり前」がひどく揺らいだように感じたのも事実だ。
一人一人に異なる「当たり前」があり、それは絶対のものではなくて、揺らぐこともある――
今まで考えたこともなかった。けれどゲンキは、なんとなく納得できてしまった。
「肉体の性に対して、好きになる性、自分が自分らしくいられる性、自分の好みの表現としての性――性指向、性自認、ジェンダー表現。その度合い、程度の強さだって、人それぞれなんです。
あなたたち自身が自分のありのままを受け入れること、そしてあなたたちが好きになる人を心から受け入れられること、そうすることができる豊かな心をもって、これからを生きていってほしいの」
宇照先生が、ちらと時計を見る。
もう、チャイムの鳴る時刻だった。それを見て先生は、最後にもう一つだけ、と口を開く。
「先生はね? 君たちの性体験について、本当は就職――子育てができる収入を継続的に得られて、社会的責任が果たせるようになるまでは、控えていてほしいと思っています。でも先生が言ったからといって、興味がある人が止まるとは思えません」
宇照先生はゆっくりと教室を見回す。
一人一人に、目を留めるようにして。
「――だから今日、お話をしました。あなたたちがこの夏休みに、本当に大切な相手と、その相手を思いやった生活をして、高校二年生ならではの素晴らしい体験をしてくれることを、先生は願っています」
しゃべりすぎちゃった、と微笑み、額ににじむ汗をハンカチで拭きとったあと、力尽きたように椅子に座る宇照先生に対して、
ぱらぱらと、拍手が起こり始め、
それは徐々に大きなうねりとなり、
しまいには隣の担任が様子を見に来るまで、大歓声と共に鳴り響き続けた。
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