第29話:ぬくもりが伝わる何かを手元に

「ユウのこと、いつも、ユウくん、って呼んで……くれているのかしら?」


 ゲンキは少しためらったあと、「ええと、……呼び捨てで」と正直に答えた。


「そう……だったら、親の私の前でも、遠慮なく呼び捨ててあげて?」

「え? ええと……呼び捨てにしていいんですか?」

「ユウくん、って呼ばれるより、きっとあの子は、そのほうが嬉しいと思うから」

「はぁ……」


 ゲンキは今まで、友達の親の前で友達を呼び捨てにしたことはない。それは親の躾だった。

 挨拶はきちんとする。

 友達の家に遊びに行くときは身だしなみをきちんとして、親の前だけでいいから必ず「くん」「さん」を付ける。

 出された食べ物は絶対にうまそうな顔をして食べ、決して残さない。


 両親はあまり勉強しろだのなんだの、うるさく言う人ではないが、人としての生き方にはうるさい。

 男はこう、女はこう……それなりに厳しく躾けられた、とゲンキは感じている。

 それなのに、わざわざ友人の親から、息子を呼び捨てにしろなどと言われるとは。


「きっとユウは、その方が嬉しいのよ。私のことは気にしなくていいから、ユウって呼んであげてね」

「は、はあ……」


 ためらいつつもうなずくゲンキに、ユウの母親も嬉しそうにうなずく。


「ゲンキくんにちょっと聞きたいんだけど、うちのユウとは、いつ知り合ったの?」

「知り合った、ですか? ……四月の始業式の日が最初だと思いますが」


 そうだったよな? ――いろいろ思い返してみるが、ゲンキにはそれ以上の過去など思い当たらない。


「ふうん……。ゲンキくんの認識ではそうなんだね」

「俺、ひょっとしてユウと以前に会ったことがあるんですか?」

「さあ、どうかな? ユウに聞いてみたらわかるかもしれないわよ?」

「それってずるいですよ、なんだかすごく気になるじゃないですか」


 そこへ、ユウが部屋に戻ってきた。


「なに? 二人で何を話していたの?」

「いや? 別に大したことは話してないよ」

「そう? だってお母さんが、なんだか嬉しそうにしてるから」


 それからしばらく、三人で色々な話をしていた。


 いつもつるんでいる三人の中ではユウが最も頭が良くて、単元テストなどの時にはいつも世話になっていること。

 どちらかというと運動の苦手なユウを、体育ではいつもゲンキがサポートしていること。

 普段、教室で話していることなど。

 ユウの母親は、そんな一つ一つのエピソードに、楽しげにうなずいていた。


「そういえばユウの弁当って、いつもユウが自分で作ってるんでしたっけ? すごいですよね」

「そ、そんなことないよ、普通だよ」

「普通じゃねえよ。俺、弁当なんて作ったことないし。第一、コックとかラーメン屋の大将とか以外、男は普通、キッチンになんて入らないだろ?」

「あら、そんなことないわよ?」


 ゲンキの言葉に、ユウの母親がやんわりと割り込んだ。


「今の時代、家事に男も女もないわよ?」

「いやー……うちのおふくろ、そういうの嫌がるんですよ。男の子がキッチンに入らないの、とか言って」

「いまどき、珍しいお母さんね?」

「俺もそう思います。けどうちのおふくろ、専業主婦だからそういうのにこだわりがあるのかもしれません」


「ゲンキは、お母さんが好きなんだね」

「好きとかそんなんじゃなくて、逆らうとうるさいからさ」

「ふふ、そういうことにしといてあげるよ」

「なんだよ、ユウは俺の親のこと、知らねえだろ?」

「知らないけど、ゲンキを見てたら、きっとこんな人なんだろうなっていう想像くらいはつくよ?」

「見たこともないのにか?」


 ゲンキの言葉に、ユウは微笑んでみせた。


「例えばそうだね…… 女の人は面倒くさいっていうのは、 お父さんの口癖でしょ? 違う?」

「え? えっと、それは……」

「ふふ、当たったんだね?」


 うろたえるゲンキに、ユウはさらに続ける。


「たぶん言うときは、お母さんとの夫婦喧嘩に負けて、負け惜しみをゲンキに言うとき……かな? あまり、面と向かってお母さんに言わないでしょ?」

「……なんでそんな、見たことあるみたいな……」

「だって、ゲンキ、ボクたちには愚痴っぽく言うけど、女の子に直接『めんどくさい』って言うこと、ほとんどないから」


 感心し、じゃあソラタの家の様子とかはわかるのか、と聞くゲンキに、ユウは笑いながら首を振った。


「ボクが分かるのは、ゲンキのことだけだよ」




 いったいいつ帰ってくるのかという電話がゲンキに入ったのは、9時もだいぶ過ぎた頃。スピーカーが壊れるかと思うような、ユウにも、ユウの母親にも聞こえるほどの大音量で。


「わ、分かったって、かーちゃん、すぐ帰るから!」

『こんな時間までよそ様に居座って! よーく頭を下げて謝ってから帰るんだよ!! わかったかい!!』


 電話の内容は完全に筒抜けだったから、ゲンキは苦笑いで「……そーいうことなんで、すみませんでした」と頭を下げた。


ここまでのパワフルカーチャンだったとはユウも想定外だったらしく、母親とともに苦笑しながら、「う、うん、引っ張り込んじゃって、ごめんね?」と頭を下げる。


「……ボクが引き留めたんだって、説明に行ったほうがいいかな?」

「それやると多分俺がおふくろに殺されるうえに、さらにユウを送らされる。やめてくれ」


 恐る恐る提案したユウに、ゲンキは笑って答えた。




「 あ、そうだ、ユウ」


 玄関で、思い出したようにゲンキは聞いた。


「 教えてくれ、 何でユウの足はそんなにもいい匂い なんだ?」

「ボクの足がいいにおいって、ゲンキ、変な性癖に目覚めてない?」


 ユウは、笑いながらシューズボックスを開いた。


「ゲンキ、お風呂でちゃんと足の指、洗ってる?」

「そりゃまあ、一応……」

「 ちゃんとブラシで、指の爪の隙間まできちんと洗ってる?」


 問われて、ゲンキは目を丸くした。


「 はあ?  ブラシで?  そんなことまではさすがに……」

「足の指と指の間も、きちんとこすって洗ってるかな。 そういうところが大事なんだよ?」

「……ユウは、女子みたいに 細かいんだな」

「 身だしなみに男の子も女の子もないよ、ゲンキ?」


 微笑みながら、ユウは、いくつかの布袋を取り出した。


「 それから、身だしなみも大事だけど靴のケアも大事だよ? ボクは毎日、帰ったら靴の中にアロマサシェを入れてるんだ」

「アロマサシェ? なんだそれ?」

「簡単に言えばアロマの匂い袋だよ。これ」


 そう言って、ゲンキに二つ、渡す。端切れを利用したらしいそれは、大きさも柄も違っていたが、手作りらしいあたたかみが感じられた。


「靴の中に匂いをつけるのか?」

「というか、 靴の中を殺菌するためかな」

「 靴の中を殺菌?」


 ゲンキが、手の中の袋をじっと見つめる。


「 うん。 それ、重曹にティーツリーのアロマオイルを染み込ませたのを入れてあるの」

「ティーツリー……?」

「うん。薬を使うのは嫌だけど、アロマオイルなら自然のものだから優しいと思うし」


 ゲンキは、そっと匂いを嗅いでみる。アロマというと、わけもなく香水のようなものをイメージしていた彼は、その匂いを嗅いでわずかに顔をしかめた。

 爽やかだが、どことなく薬を想像させるような、そんな香りだった。


「……どこで買ったんだ?」

「ボクが作ったんだよ? さすがにアロマオイルは買ったものだけど」

「え、じゃあこれ、ユウの手作り?」

「そうだよ?」


 アロマというと香料やエステを思い浮かべるゲンキにとって、自分の男友達がアロマを利用していて、あまつさえアイテムを自作しているというのは、なかなか新鮮に感じられた。


「 … アロマとか俺全然わかんないけど 、 なんかよく考えてるんだな?」

「だって、少しでもきれいでいたいでしょ? 靴の匂い消しに興味があるなら、予備があるから、一組あげるよ」


 そう言って、ユウはシューズボックスから真新しい布袋を取り出そうとした。


「新しいのなんていいよ、くれるなら、これでいい」


 だが、それを聞いてユウが慌てた。


「い、いいよ、新しいのをあげるから。そんな使いかけのやつじゃなくて……」

「使いかけでいい。新品をよこせなんて、そんなこと言えるか」

「だ、だめだって! それ、ボクのくつに入れてたやつで……!」


 取り返そうとするユウから反射的に逃れつつ、先程、自分がやってしまったことを思い出す。


 ――俺、コレの匂い、鼻をくっつけて嗅いじゃったよ。


「ゲンキには、ちゃんと新しいのをあげるってば!」


 思考が停止したその隙に、ユウに袋を奪われる。


「もう……ボクの靴のにおいがついちゃってるものを欲しがるなんて、ゲンキは変だよ」


 恥じらうユウを見て、ゲンキは唐突に理解してしまった。

 手元から、ユウが使ったというアロマサシェを失った――その喪失感を得て。


 ユウが、ゲンキの使った自慰器具を欲しがった理由を。


『ユウが身につけていたものが欲しい』


 ユウを感じられるもの――相手の残り香が感じられる何か、ぬくもりが伝わる何かを手元においておきたいと思う、その心を。




 変なのはユウか?

 それとも俺か?

 あるいは、どちらも変なのか?

 それとも、どちらも実は普通なのか?


 ゲンキは、ユウに手渡された真新しいアロマサシェを手に歩きながら自問自答し続けたが、家にたどり着いても、ついに答えは出なかった。

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