指向と自認と表現と

第30話:ユウが俺を狂わせる

「ねえゲンキ、今朝はなんだか元気がないみたいだけど、どうしたの?」

「ちょっとな……」


 ユウが指摘したとおり、ゲンキはなんだかどんよりとした目つきをして電車に乗っていた。目の周りにはくまも見える。いつもの快活なゲンキには見えない。


「ゲンキ、ひょっとして夜更かししすぎたの?」

「あー……まぁな」

「何か、急がなきゃならない課題なんてあったっけ?」

「そんな課題なんてないから、安心しろ」


 ――ユウになんて言えるものか。

 ゲンキは心の中でつぶやいた。もし言おうものなら、ユウに何を言われるか分からない。


 昨夜、帰ってからゲンキは、勉強にほとんど手がつかなかった。

 理由はただひとつ。昼の保健室で見た、あの少女の美しい後ろ姿が脳裏にちらつきまくって、全く集中できなかったからである。


 ――まったく、俺は何回セルフバーニングしてたんだよ……。


 あの白い背中、つんと尖った胸の尖端、それで処理していたならまだいい。

 何度かは、それとユウのすべやかな白い足の感触を、目の前にあった白いうなじを思い出してしまって、ごっちゃになっていたのが痛い。


 言えるわけがない。よりにもよって、ユウのあの白い肌を、あえかなうなじを、イメージに重ねて自慰にふけってしまったなんて。


 だが、遠目に見ただけの白い背中と、実際に手に取ってその感触を知ってしまったユウの足、間近で見たあのすべやかなうなじは、思春期まっただ中のゲンキには刺激が強すぎたのだ。


 朝起きて我に返って、慌ててコンビニの小さなレジ袋に、ゴミ箱に厚く層をなしていたティッシュの山を圧縮してぶち込み、さらにわざわざ紙ゴミを生産してカムフラージュしてきたゲンキ。


 一瞬とはいえ、よりにもよってユウをイメージして抜いてしまった――


 自己嫌悪ばかりが残る朝。

 それなのに、眼の前には当の本人が、くりくりとした目で自分を見上げてくる。

 邪気のない笑顔で。


 ――コイツ、トイレのとき以外では自分のブツなんて触ったこともなさそうな顔してるよな。


 ユウの邪気のない顔を見ていると、同じ歳の高校生とは思えなくなってくる。


 ――ネタがマ〇ジンの水着アイドルとか想像だとかいうのもツッコミどころ満載だったけど、それ以前にオナニーのやり方を聞いてくる時点でお察しだっただろ。穢れ無き天使だよコイツ。


 ゲンキは、なんだか自分がひどく汚れた存在のように感じてしまう。


「ねえゲンキ、なんだか本当に元気がないね。足元もふらふらしてるし、本当にだいじょうぶ?」

「大丈夫、平気だって」


 ユウは少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべたが、まっすぐゲンキを見て言った。


「昨日はユウに助けてもらったからね。だからボク、ゲンキのためならなんでもしてあげるから。手伝ってほしいことがあったら、遠慮なく言ってよ」

「サンキュ、なんかあったら頼む」


 平静を装っているゲンキではあったが、実は心の中は穏やかではなかった。

 ユウのうなじ――そのほっそりとした白い肌が、今のゲンキにはあまりにも眩しく映るからである。


 そう、保健室で見た、あのなまめかしい白磁のような肌は、ゲンキにあまりにも鮮烈な印象を残しすぎていたのである。

 おかげで今も、ユウの白い肌――そのうなじを見てしまった、ただそれだけで、あの場面を思い出してしまい、どうにも胸のざわめきが治らなくなってしまっていた。


 しかも、満員電車のなか、いつものようにすし詰めの人間の山から守るように、ユウを目の前にして立っている、この状況。


 人に押された――そんな言い訳で、ユウのそのうなじに触れてみることだって、できそうに思えてしまう。


 触れてみたい、触ってみたい。


『ボク、ゲンキのためならなんでもしてあげるから』


 先の言葉が、妙に煽情的に脳内でリピートされる。

 その首筋は、日焼け知らずの白い肌は、どんな感触なのだろう。

 ワイシャツの隙間からわずかに見えるその肌に触れたら、ユウはどんな顔を――


「……ゲンキ? どうしたの、なんだか目つきが怖いよ……?」


 小首をかしげるようにしているユウの言葉に、ゲンキは伸ばしかけていた自分の手に気づいて、反射的に手を引っ込める。


 何考えてんだ、俺は――


 目をそらしたゲンキに対して、ユウが微笑みかける。


「……ゲンキ? ねえ、ほんとにだいじょうぶ?」


 ユウはゲンキの手を取ると、そっと、それを自身の頬に当てた。


「ゆ、ユウ……!?」

「こうしたかったんじゃないの? ちがった?」


 そう言って、ゲンキの手に重ねた自身の手を滑らせてみせるユウに、

 それどころかゲンキの手のほうに小首をかしげるようにするユウに、

 あまつさえ、ゲンキに愛らしさすら感じられる微笑を向けるユウに、


 思わず手を引きそうになる。


 自分の頬とは全く違った、ユウの頬。

 時々できるニキビを苛立ちながら潰す、そんなゲンキ自身のものとはまるで違う、なめらかな頬――その肌。


「ふふ、ゲンキの指、ちょっと硬いね」


 だから、もうすこしで、指を、その頬から、滑らせるところだった。

 うなじに向けて。


『ボク、ゲンキのためならなんでもしてあげるから』


 トモダチなんだ、ユウは。

 なのにコイツの――天使の微笑みは、俺を狂わせる。


 トモダチなのに――


 昨夜、ゲンキは確かに、保健室にいた、あの女の子をイメージして自慰にふけっていた。どうしようもなく、あの一瞬のイメージにしがみつくように。


 ――女はめんどくさいけど、でも嫌いじゃないんだ。恋愛をするなら女子と――そこはソラタと一緒なんだ。当然だ、普通なんだ。

 ――じゃあ、今の俺はなんなんだ?




 今朝何度目かの自己嫌悪に、ゲンキの気分は果てしなく沈み、視線も床に落としがちだった。


 だからこそというべきなのだろうか。

 それとも不幸中の幸いだったというべきか。

 駅に着いて降りようとしたとき、ユウの悲鳴に、ゲンキは反射的に、ユウの後ろにいた男に躍りかかっていた。


「ひっ……な、なんだお前――」

「じゃあこの手はなんだ、チカン野郎!!」


 ざわりとする車内で、ゲンキは格好の憂さ晴らしを見つけた思いで、ユウの尻をつかんでいた男の腕をねじり上げた。

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