第55話:ずるいよゲンキ、ボクのココ、こんなふうして

「ユウ……」


 雨音のせいだろうか、それともよほど、悲しみに捕らわれていたからだろうか。

 すぐそばまで近づいても、ユウは気づく様子はなかった。


「……ゲンキ?」


 ユウは一度ゲンキを見上げた。

 虚ろな目で、焦点の合わない、何も見ていないような目で。

 そのまままた顔を下ろし……かけて、そして今度は勢いよく顔を上げ、そして、のけぞって。

 そのまま逃げようとして、しかしゲンキに手をつかまれる。


「どこ行くんだよ。やっと見つけたんだ、もう離さねえからな?」

「離してよ! ボクは……ボクは!」


 ひどくおびえたように手を振りほどこうとするユウの手を、ゲンキはしっかりと握りしめる。


「話を聞けって!」

「何を聞けって言うのさ! この二日間、あの子と一緒にいたんでしょ! ううん、先週だって練習会だなんて言って、あの子と一緒に練習してたんでしょ!」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、ユウはゲンキの手をはがそうとやっきになる。

 けれど、鍛えられたゲンキの指を外すことなど、ユウにできるはずもない。

 ゲンキは、そんなユウの手をつかみながら、あくまでも平静を装って話しかけた。


「ユウ、聞いてくれ。俺は……」

「ボクのご飯のおかげで記録が出た? 嘘ばっかり! あの子と一緒にいて楽しかったからに決まってる!」

「ユウ、だから話を聞いてくれよ、俺は――」


 するとユウは、それまで逃れようと身をよじっていたのを急にやめて、逆にゲンキに詰め寄った。


「ずるいよ! ボクはゲンキのこと信じてたのに! あんな可愛い女の子と一緒だったなんて!」


 流れる涙をぬぐおうともせず、ユウはゲンキをまっすぐ見上げて叫んだ。


「あんな可愛い子が相手じゃ……どう頑張ったって、ボク、ゲンキの一番になれないよ……!」


 ユウは目を伏せると、ひとつしゃくりあげてから、ゆっくり、ゲンキに身を寄せる。


「だって、ボクはゲンキのトモダチで……あくまでもトモダチ……」


 そっと、ユウの体が、ゲンキの胸元に収まった。

 雨はさきほどより小降りになったとはいえ、やむ気配はない。

 ずぶ濡れの二人の体は、どちら冷え切っている。けれどゲンキには、その小さな体が温かく感じられた。


「でもあの子は女の子で……。強くたって可愛くて、女の子らしい女の子で。

 ――ボクなんて……どうやったって敵わないじゃないか……」

「敵わないって……。何言ってんだ、ユウ、お前は――」


 ユウの言葉に胸を穿たれる思いがして、ゲンキはその体をそっと抱きしめる。

 ユウは、ハッとしたように顔を上げた。けれどゲンキの胸に顔をうずめると、また、肩を振るわせた。 


「ずるい……ずるいよゲンキは……。こんな……ときに、優しくするなんて。だから、ボク、勘違い、しちゃったのに……!」

「勘違いって、ユウはさっきからいったい何を――」


 言いかけたゲンキに、ユウはゲンキを見上げる。ゲンキの胸にすがりながら、その胸を叩いた。力なく。


「ゲンキは女の子のこと、ずっと面倒くさいって言い続けてきたよね? ボクのこと、好きだって言ってくれたよね……?

 だから……だからボクは……!」


 そして、またゲンキの胸に顔をうずめる。

 

「ボクみたいなのだって……ゲンキの一番になれるかもって、思ったのに……!」


 かすれた声を絞り出すようにして、すすり泣くユウ。その体を抱きしめる腕に、改めてゲンキは力を籠める。


「馬鹿……お前、俺より頭いいんだろ? だったらどうして分からねえんだ」


 ゲンキはゆっくりと、その耳元にささやいた。ゆっくりと、言い聞かせるように。


「俺が今、どこにいると思ってんだよ」

「だって……。だってあの子、とっても可愛いし、足だって速いんでしょ? ボクが二人の間に入るスキマなんてないよ……!」


 ゲンキはため息をつく。どうしたらわかってもらえるのだろう。


「だったら、どうして俺はここにいると思うんだ」

「……わかんない……わかんないよ、ゲンキの考えなんて……!」


 突然、ユウはゲンキを突き飛ばすように腕を突っ張った。怪我をした足に衝撃が走り、ゲンキは思わず顔をしかめて腕をほどいてしまった。

 ゲンキの腕から解放されたユウは、一瞬、すがるような目を向けた。しかしすぐに視線をそらすと、ゲンキに背を向けて走り出す。


「ぐぅっ――おい! 待てよ、ユウ!」


 ここまで来てそれはないだろ――ゲンキはひざの痛みに必死に耐えながらユウを追った。


「……ゲンキだってそう! ゲンキには分かんない! ボクが何を考えてるかだなんて、ゲンキは分かってくれない!」

「待て、ユウ! なにが分かってくれないだ、こっちの話を聞こうともしないで!」


 逃げながら、ユウは叫んだ。叫び続けた。


「ボク、ゲンキが好きだった! ずっと好きだった! 一年のときから、あのときからずっと!

 ――だからボク、ゲンキが好きだって言ってくれたとき、それがたとえトモダチとしてでも、すごく、すごくうれしかったんだ!」


 本来のゲンキであれば、ユウをつかまえるなど造作もなかったはずだった。

 だが、ひざの怪我がハンデとなって、なかなかユウを捉えられない。


「でもやっぱりボクの勘違いだったんだ! 口ではどんなにめんどくさいって言ったって、ちゃんと女の子が好きって言えば、ゲンキはそっちに流れていっちゃう!」

「いい加減に――しろっ!」


 公園のトイレの壁の前、茂みのそばでようやくユウを追い詰めると、その腕をつかんで壁に押し付ける。

 だが、ユウのかすれた叫びは止まらなかった。


「ボクじゃダメだったんだよ! どんなにお料理をがんばったって、少しでもゲンキのそばにいられるようにしたって!

 ――結局ボクじゃ、ゲンキの一番になれないんだ!」

「だからユウ、聞けって」


 ゲンキはたまりかねて、ユウを抱きしめた。

 放してよ、そう言って抵抗するユウの耳元に、ゲンキは痛む胸から想いをこぼすように、高ぶる気持ちを目いっぱい押さえつけて、ささやきかけた。


「――ユウ」


 これ以上、ユウが自身をおとしめ傷つけるようなことを、言わせたくなかった。


「ユウ、俺は……お前が、好きだ」

「それはトモダチっていう意味じゃないか! ボクは、ボクはゲンキの事が……!」

「ユウ、聞いてくれ」


 もがくユウの耳元に、ゲンキはもう一度、言葉を紡ぐ。


「分かってくれるまで、何度だって言う。俺は、ユウが好きだ。俺のそばで笑ってくれているユウが好きだ。俺のことを好きだと言ってくれるユウが、大好きだ」


 ゲンキの腕の中でもがいていたユウは、とつとつとしたゲンキの言葉に、動きを止めた。

 振り上げようとしていた腕から力が抜け、ゲンキの胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らし始める。


 そんなユウに、ゲンキは笑いかけた。


「バカ、泣くんじゃねえよ。今、言ったばかりだろ? 俺はユウの笑顔が好きだってな」

「ずる、い、よ……ずるいよゲンキ、ボクのココ、こんなふうして……」


 ユウは、おずおずとゲンキを見上げる。ゲンキの手に自分の手を添えると、それを胸元に押し当てた。

 濡れたジャージのヒヤリとした感触の下で、ユウの鼓動が、かすかに感じられる。


「こんなにドキドキしてるときに、ゲンキにそんなこと言われたら……ボク、また勘違いしちゃうよ……?」


 ゲンキは、ユウの鼓動をてのひらで感じて、自身も一気に高鳴り始めた鼓動を悟られないかと思いながら、努めて平静に言う。


「勘違い? 何をだ、俺がお前を好きだってのは、紛れもない事実だぞ?」

「だってボクは……あの子みたいに足が速くも、可愛くもなくて……」

「……バカ。お前があいつより速かったら、俺たちが今まで練習してきたことが無意味だったって言うようなものだぞ? そんなの、歯を食いしばってトレーニングしてきた俺たちがバカみたいじゃねえか」


 そう言ってゲンキはユウの頭をくしゃくしゃとやった。ユウはくすぐったそうに身をよじる。


「でもな、さっきからずっとお前、自分のこと可愛くないとかハルカに勝てないとか、そっちの方が勘違いだっつうの。

 ユウ、お前は十分――」


 ゲンキは一瞬口ごもると、不自然に続けた。


「――十分、……ぃいやつだよ」


 そのまま、そっぽを向いてしまう。


「……ゲンキ、今、なんて言ったの? よく聞き取れなかった、もう一度言って?」

「うるさいなあ。男はそういうこと、そう何度も言うもんじゃねえよ」

「ずるいよゲンキ、教えて?」


 泣き笑いの顔でせがむユウに、ゲンキはひきつった顔で首を横に振る。


「うるさいうるさい、もう俺は言った。言ったからもう言わない! 帰るぞ!」

「ゲンキ、もう一度だけ! もう一度だけでいいから聞かせて? ボク、さっきの言葉、ゲンキの口から聞きたい」

「あーあー! 聞こえない! 帰るったら帰るぞ!」

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