第56話:ボクのせいで、ゲンキが大変なことに

 荷物を競技場に置いて来ていたゲンキが、荷物だけとってきて帰ろう、と言い出して、そしてやっとユウは気づいた。ゲンキが、左のひざに怪我を負っているということに。


「お、お手当てしなきゃ!」


 慌てるユウだったが、ゲンキは身一つでここまで来たため、当然何も持っていない。ユウも、ハンカチくらいしかもっていない。そのハンカチも、ひざを包み込むには到底足りない。


「競技場に戻れば救護室くらいあるからさ。消毒だけしてもらえば十分だって」


 だが、誰がどう見てもえぐれて陥没すらしているそのひざが、消毒程度で済むようなものにはユウにはとても見えなかった。しかもその傷を負った遠因は、ユウが嫉妬のあまり、後先考えずに競技場を飛び出したことなのだ。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……」

「分かった、分かったから」


 ひざを血で染めた陸上選手と、そのとなりでべそべそと泣きながら歩く高校生。

 そんな二人が揃って歩いていれば、人の目を引く。ちらちらとこちらに向けられる視線を感じて、ゲンキは居心地の悪さを覚える。けれどどうしようもない。まずは陸上競技場まで荷物を取りに戻るほかないし、ズキンズキンと痛む足の応急処置も必要だった。


「……ごめん、なさい……」

「だからユウは関係ないって。俺が勝手にコケただけだから」

「で、でも……ボクを探して、それでけがをしたんでしょう? だったら、やっぱりボクのせいで……」

「だ・か・ら、ユウのせいじゃないって言ってるだろ」

「でも……でも……」


 ゲンキが、べそべそとしゃくりあげるユウの背中をどん、と叩く。むせるようにしてつんのめったユウだが、しかし泣き言は止まらない。


 ただ、今のユウの取り乱し方は、さっきよりよほどマシだとゲンキは考えていた。さっきの、自分を価値のないもののように考えて自暴自棄なことを言っていた時とは明らかに違うからだ。

 それだけでも、ユウを追いかけ、見つけることができて良かったと、ゲンキは思っていた。




「だって、だって! ゲンキの荷物はなくなっちゃってたし、その足じゃ当分走れないでしょ? ひざの皿が折れてるかもしれないなんて……! ボクの……ボクのせいで、ゲンキが大変なことに……」

「荷物はしょうがねえよ、もうあきらめた。それよりホントに折れてたら、お前を追っかけて走れないって。気にすんな、ああいう先生はオーバーに言っておとなしくさせとこうって考えてるだけに決まってるから」


 ゲンキの荷物は、置いておいた場所から消えていた。

 雨が当たる場所に置いてあったから、もしかしたら誰かが――そう思って総合案内に聞いてみたが、届けられたものはないという。


 帰りの電車代もその中だったので、ゲンキがあっけらかんと「歩いて帰るしかねえか」というと、ユウの「ボクのせいで……」が始まったのだ。

 診察室から戻ったゲンキの話を聞いて、それが加速することになったのだが。


「でも、もし、……もし、ほんとに、ゲンキの足の骨が折れてたら、ボク、どうしたら……」

「なんにもしなくていいって。全部俺のせいだから。おふくろだってそう言うに決まってる」


 言ってから、ゲンキはだんだん不安になってきた。


『連絡が遅い!』


 パァンと頬を張りながら顔を真っ赤にして怒鳴る母の姿が目に浮かぶ。


「ごめん、ユウ、スマホ貸してくれ」




「連絡が遅い!」


 やっぱり怒鳴られた、とゲンキは苦笑いし、ユウもつられて苦笑いになる。

 その怒声は、当然のようにユウまで聞こえていた。


 ユウのスマートフォンから母の電話にかけるのは、もちろん初めてだった。最初、信じられないほどの高音で「はい、枡田ますたでございます」という声を聞いた時は、ゲンキ自身が電話番号を間違えたと誤解したくらいに、母親だと分からなかった。


 ひざを打ってけがをしたこと、理由は友人を追いかけていて勝手に転んだこと、手当てをしてくれた先生の話として、膝蓋骨しつがいこつ、いわゆるひざの皿の骨に損傷がある恐れがあるから必ず病院に行って検査を受けるように言われたこと、などを、正直に話した。


 そして、電話越しに雷が落ちた。


 散々怒鳴られ続けた挙句、母親に「それで! もう一度聞くけど、アンタ、ホントにお友達に迷惑かけてないんだろうね!」と凄まれた。


「それはない」

「絶対にだろうね!?」

「たぶん」

「多分じゃダメなんだよッ! いますぐ代わりな!!」

「大丈夫だって」

「代わりなって言っただろ!!」


 すさまじい大音量は、ユウだけでなく、周りの人間にも聞こえるようで、周りの人間はみな、ゲンキをちらちらと見る。中にはクスクスと笑っている者もいる。


 ユウはおっかなびっくり電話を代わったが、うって変わってスマホからは声が聞こえなくなり、ユウはただ、「はい」と「だいじょうぶです」を繰り返していた。


「……すごく、やさしそうな感じだった」

「んなバカな、おふくろが優しいなんてあり得ねえ」

「だ、だって、その、……すごく、心配されちゃって……」

「……息子には帰って来るな、みたいなこと言っといて、なんだよその差は」


 ゲンキは苦笑すると、「じゃあ、帰ろうぜ」とユウに促した。


「で、でも、ほんとにいいの? ほんとに、その……日本記録のひとのお話とか、聞かなくていいの?」

「ユウもホントに引きずる奴だな。俺がいいって言ってるんだから問題ないだろ」


 あきれるゲンキに、ユウが目を伏せながら、蚊の鳴くような声で言った。


「ボクの……ボクのせいで……。ゲンキ、あんなに楽しみにしてたのに……」

「さっき俺のおふくろが言ってただろ? ユウをびしょ濡れのままにして風邪ひかせたら、俺が殺される」


 顔を歪めたユウに、ゲンキは慌てて「冗談だって!」と続けた。


「このひざ、早く医者に見せて安心を買いたいんだって。万が一のときには、早めに治したいしな」


 ますます泣き出しそうな勢いで顔が歪んだユウの手を引っ張って、競技場の外に出ようとしたゲンキを、悲鳴と共に止める者がいた。


「ゲンキくん! その足、どうしたの!?」


 ――その手にゲンキのエナメルバッグを提げた、ハルカだった。




「おはようゲンキ遅かったな……って、お前なんだその足。どうしたんだよ」


 ソラタは教室に入ってきたゲンキを二度見した。

 

「ちょっとコケて怪我した」

「お前、どう見てもちょこっとで済んでねえじゃねえか! 陸上部員が足を怪我してんじゃねえよ」

「怪我しちまったものは仕方ねえだろ」


 そう言って、ゲンキは棒のように固定された左足を引きずるように、席に向かうと、いつものように放り投げた鞄を席に着かせ、自分はソラタの席の近くの、適当な席に座る。


「そんだけ固められてるってことは、骨折か何かか?」

膝蓋骨ひざの皿に少し、ひびが入ったらしい。縦だったのがまあ、まだマシって感じだけどな」

「お前、やっぱちょこっとどころじゃねえじゃねえか!」

「ちょこっとだよ。念のために安静にするってだけだ、八月には復帰するよ」

「やっぱり、ぜんぜんちょこっとじゃないじゃない。……それで、ユウは?」


 あきれながら聞いてきたマホに、ゲンキは予想通りだった、というようにため息をついた。


「あ? なんだお前、一緒じゃなかったのか?」

「ギリギリまで待ってたんだけどさ、会えなかった。で、先に来てるかもって思ってあきらめたんだけどさ。やっぱりまだか」

「電話すれば分かるじゃん。なんでお前、電話しなかったんだよ」

「スマホぶっ壊れてて、電話もSNSも一切できねえんだよ」


 ゲンキの言葉に、ソラタは顔をしかめた。


「足を怪我した上にスマホまでぶっ壊れたのかよ、お前。この週末はお前、不幸の塊だったんだな。俺にまで不幸を伝染させるうつすなよ?」

「お前、それがトモダチに対する態度かよ……うわ俺の手がお前に不幸を伝染させよううつそうとしているわー大変だ」

「わざとらしく棒読みで不幸を伝染させよううつそうとすんじゃねえよ!」


「それにしても珍しい光景よね、ゲンキが一人で登校なんて」

「だよな。ゲンキとユウの『遠目でもわかるデコボココンビ』は、二人で一匹って感じだったもんな」


 笑うソラタに、ゲンキは憮然として言い返す。


「うるせえな、そう言うお前はマホの『しもべ』にでも成り下がったのかよ」

「バッ……俺はな、マホがどうしてもって言うから仕方なく一緒についてきてやってるだけで――」

「何言ってんの、あんたが彼女が欲しいっていつも哀れっぽく言ってるから仕方なく形だけそれっぽく付き合ってやってるだけじゃない」

「おい、なんだそりゃ、それじゃまるでオレが――」

「文句あんの?」

「……いや、なにも」


 ゲンキは、甘すぎるクリームたっぷりのケーキでも食わされた気分で立ち上がると、自分の席に向かった。


 ……やっぱり昨日のことで風邪を引いたのか?


 あれから家まで一緒に帰ったけれど、季節柄、早く乾くかと思ったら、電車の中もバスの中もエアコンがガンガンに効いていて、非常に寒かった。

 あれが原因で体調を崩したのだとしたならば、ユウをあんな状態にしてしまった俺にも責任があるのかもしれない――ゲンキは暗澹とした気分だった。


 自分は普段から鍛えるているからいい。けれどユウは、日常的にはほとんどスポーツをしておらず、体も鍛えられていない。

 同じずぶ濡れになったなら、体調が悪くもなりやすいだろう。


 早く登校してきてくれ、俺を安心させてくれ――


 ゲンキは祈るような思いで、SHRショートホームルームの予鈴を聞いていた。

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