第53話:わたし、ゲンキくんのファンなんです

「あはは、さすがに200メートルまで自己新ってわけにはいかなかったね」

「200はちゃんと記録を更新してきたからな。今はフォームの改造中だし、タイムが伸びないのは分かってたさ。でも、手ごたえは感じた。ハルカのおかげだ」


 トラックの内側――芝生の上に大の字になって寝転んでいるゲンキは、近寄ってきたハルカの方を見ずに答えた。


「そう言ってもらえるとうれしいなあ」


 ハルカが、その隣に座る。


「それにしても、なんとか天気がもってよかったね?」

「まあな。記録会が始まる直前にぱらぱら来た時はどうしようかと思ったけどさ」


 空は、昨日とはうって変わってどんよりとした曇り空。時おり雨粒を感じる天気。

 午前中は降水確率40パーセント、曇り時々雨という予報。

 この午前中の記録会はともかく、桐生きりゅう選手のコーチングを受けられるかもしれない午後だけは、なんとか雨が降らないでほしい――そう、ゲンキは祈りながら会場に来たのである。


「でも、午後からは持ち直すんだって。よかったね、ゲンキくん」

「マジか、それはありがたいな」

「あはは、ゲンキくんって、そんなに桐生きりゅう選手のコーチング、受けたかったの?」

「当たり前だろ、だって日本レコードのアスリートだぜ?」

「そっか……。うん、そうだよねっ!」


 昨日の今日だというのに、ハルカの態度が変わらないことが、ゲンキにはありがたくもあり、同時に、少々、不気味でもあった。



  ▲ △ ▲ △ ▲



『わたし、立候補したら、……だめ、かな?』


 ハルカは、たしかに、言った。


『ゲンキくんのカジョノに、だよ?』


 ゲンキは返答ができなかった。

 だまって、二人で、駅構内を歩き続けた。


 カノジョという存在にあこがれはしても、同時に女性というものの面倒くささを目の当たりにしてきて、ゲンキは、自分には当分縁のないものだと思ってきた。

 だから・・・、ソラタやユウたちとつるんできたし、いなくても特に問題だと思ったことはなかった。


 それが、どうして。


「だって……ゲンキくん、カッコいいし、それに……」


 ハルカは階段を上り終えると、立ち止まった。

 少し目を伏せて、けれど、笑顔で続けた。


「完全な陸上バカってわけじゃなくって、でも女の子にガツガツしてるってわけでもなくって、なんだかあったかい感じで。

 ――きっと、ゲンキくんのそばにいたら、あったかくて、楽しい思いができるんだろうなあって」


 言われていることが、ゲンキはよく呑み込めなかった。

 彼女は、女性アスリートとしてはきっと、かなりストイックにトレーニングを積んできたのだろう。それは、たくましく鍛えられた太もも、ふくらはぎ、腹筋、腕など、見える部分の筋肉を見るだけでもよく分かる。


 ゲンキも記録向上を目指してトレーニングを積んできたが、腹のシックスパックを維持しよう、などの、なかば趣味的な筋トレをしてきたゲンキと違って、本物のアスリートとして、きっと期待されて鍛えられてきたはずなのだ。


 そんな彼女が、どうして、自分を選ぶんだろう――


「どうしてって……。だって、ゲンキくんだから。

 不器用なのかもしれないけど、でもわたしだって、ゲンキくんがやさしい人で、強い人ってことは、よく分かるから」

「……俺は強くなんかないぞ? 自分で言うのもなんだけど、アスリートとしては二流で――」

「わたし、ゲンキくんが一流だからゲンキくんのカノジョになりたいなんて、言ってないよ?」


 ハルカはまっすぐゲンキを見上げた。真剣な目で。


「前にも言ったけど、あのとき――県予選で最後まで折れなかったゲンキくんに、わたしは勇気をもらったの。――あれからわたし、ゲンキくんのファンなんです」


 答えにためらい、すぐには言葉が出なかったゲンキの手をハルカは握り、そして、その顔が急に大きくなって――


 頬に、柔らかな感触をもらった時――その瞬間、ゲンキは頭が真っ白になり、何も考えることができなくなった。


「……わたし、今、震えてる……。リレーの第一走者としてスタートにつくときより、ずっと……」


 えへへ、と彼女は笑った。困ったような表情で。


「……ゲンキくん。わたし、カノジョになれるかな? ゲンキくんとは学校が違っても、こうしてまた、逢いに来ていい?」


 ゲンキは答えられなかった。

 女子は面倒くさい――そう言って、女子との付き合い方をずっと考えてこなかった。

 憧れはあった。

 でも、面倒くさそうで――


 ――それは、本当に面倒くさかったのか?

 未知のことに、自分が直接体験したわけでもない『女性の面倒くさい面』を当てはめて、回避した気になっていただけなのではないか?


 ただの自分の臆病さを、『面倒くさい』というマジックワードで覆い隠そうとしていただけじゃないのか?


 だって、俺は――


『ボク、信じてる』


 ふと、ユウの言葉が脳裏をかすめた――その瞬間、スマホの着信音が、耳に滑り込んだ。

 目の前のハルカに失礼だと思いつつ、高ぶる気を静めようとして、ポケットに手を伸ばし、SNSアプリを開く。


「ここから未読メッセージ」


 ――ユウのメッセージだった。


『ボク、ゲンキのこと、信じてるから』


 その文字を目にした途端、胸をえぐられるような衝撃がゲンキを襲った。続いて、ゲンキの返事を切望するメッセージの数々。


 そして、誤字の混じった、最後のメッセージ。


『二日連続つて。ゲンキにもつがうがあるもんねごめんたさい』


 どうして、

 どうして『ごめんなさい』なんだ。

 どうしてユウが、謝ってるんだ。


 誤字にも気づくことができないほどの心境で、これを送信したユウ。

 その胸の内を思いやると、ゲンキはもう、いてもたってもいられなかった。


「……ゲンキ、くん……?」

「俺、用事できたから――」


 返信はまた電車に乗ってから――急いでポケットにしまおうとしたときだった。

 慌てていたせいだろうか、ポケットの縁に引っかかったスマホは、そのままはじかれ手を滑り落ち、階段を勢いよく落ちていく。


「あっ……やべっ!」


 何回も飛び跳ねるようにして落ちていったスマホは、画面は割れ、形もいびつに歪んでしまっていた。

 一瞬だけ電源が入ったときもあったが、すぐにまたブラックアウトしてしまった。


 ゲンキは烈火のごとく怒り狂う母親の姿を想像してしまったが、よりも今はユウが気がかりだった。


 ――どんな思いで、あいつは最後のメッセージを送ったんだろう。


 ハルカが顔をゆがめ、待ってほしいと訴えるのを振り切るようにして、ゲンキは駆け出した。



  ▼ ▽ ▼ ▽ ▼



 ぽつ、ぽつと、わずかに雨粒が顔を叩く。

 ――また降ってきたか。


 予報では時々雨、とのことだったから、本格的に降るというよりは、降っても通り雨程度だろう。全天候型オールウェザーのゴムでできている公式トラックなら、水たまりさえできなければ大して問題はない。

 それよりも、せっかくの練習の機会だと、ゲンキは頭を切り替える。


「昨日は、その……悪かった」


 ゲンキは勢いよく体を起こすと、ハルカに頭を下げた。


「……ううん? ゲンキくんはなにか、大切な用事があったんでしょう? わたしのほうこそ、ごめんね?」


 突然謝られて戸惑ったハルカだが、微笑みを浮かべて、自分こそと謝る。

 その姿に、また胸締め付けられる思いになるゲンキ。


 ユウとハルカを天秤にかけているようで、どうにも今の自分のありように、苦々しい思いに囚われるのである。


 ――違うだろ!

 ユウは同じ学校のオトコトモダチで、そしてハルカは――


 立ち上がると、ゲンキはスタートの練習をするために選手たちが練習をしている方に向かおうとした。


「ゲンキくん、待ってよ」


 ハルカが、ゲンキの隣を歩く。肩が触れ合う距離。それがどうにも妙に甘酸っぱく感じて、つい足早になるゲンキに、ハルカが笑いかけた。


「ね、ゲンキくん。ちょっと止まって? ほっぺに芝生、ついてるよ?」


 言われて、ゲンキは足を止める。ハルカが笑いながらゲンキの頬に手を伸ばし、顔についていた芝生を取ろうとしていた、そのときだった。


「――ゲンキ!」


 聞き慣れた、けれどここでは聞こえないはずの声を、ゲンキは、その耳ではっきりと聞いた。


「やっと見つけた、ひと、いっぱいいて分かんなかったよ。ゲンキ、記録はどうだった? もう計った? それとも――」


 大きく手を振りながら、こちらに駆けてくるジャージ姿のそいつは、ユウだった。

 聞き間違いかと思ったし、見間違いかとも思った。

 しかしユウだった、まぎれもなくユウだった。

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