第52話:ゲンキは、ボクの、すべてだから
「え、えっと、お着替え場で滑って、ころんじゃって!」
「それで、着替えたの?」
「そ、そう!」
「上下とも?」
「あ、えっと、その……そうなの!」
「そんなに床、濡れていたの?」
「え? え、ええと、うん!」
「それは危ないわね、すぐ拭いてくるわね?」
「あ、も、もうふいたから! だからもう、だいじょうぶだから!」
しどろもどろになっているユウだが、ゲンキの方も視線が落ち着かず定まらない。
そんな二人に、シオリさんはにこにこと続ける。
「ゲンキくん、これからも、ユウと仲良くしてあげてね?」
「……はい、……ええと、トモダチですから!」
ゲンキは、自分の声がうわずったことを自覚する。シオリさんはそんなゲンキに微笑みかけながら、たくさん食べるように促した。
「ゲンキ、だいじょうぶ?」
「大丈夫。ユウが心配する事じゃないから」
「だって、お母さん、ものすっごく怒ってたみたいだったから……」
ゲンキのスマホはすっかり壊れていて、電源すら入らない。そしてなによりゲンキは、ユウに対して返信できていなかった負い目から、とにかくユウの家に一直線としか考えられていなかった。
その報いが、かーちゃん大爆発である。
シオリさんの好意で電話を借りたゲンキの耳をつんざく咆哮は、もちろんユウにも、シオリさんにも届いた。
『電話が壊れた!? そこらに公衆電話があるじゃないか! え!? ない!? 嘘言うんじゃないよ、緑の電話だよ! あんたも使ったことくらい――あ? ない!? 見たことない!? ああもう、ないならないで、どっかのタバコ屋のおばちゃんにでも借りればいいでしょうがっ!』
スマートフォンが壊れたことに関しては一切責められなかったが、連絡を寄こさなかったことを散々に電話口で叱られ、小さくなっているゲンキの手から受話器を受け取るシオリさん。
「このたびは、ゲンキくんをひきとめてしまって、申し訳ございませんでした。ええ、ゲンキくんにとても仲良くしていただけている、ユウの母親でございます」
そう言ってウインクをしてみせ、とうとうと感謝の言葉と、ゲンキがいかに誠実であったかを語るシオリさんに、ゲンキは舌を巻く。
あっというまに母親の言葉は鳴りを潜め、そしてゲンキが受話器を渡されたときには、母親は信じられないほど上機嫌な声で、
「筋を通したんだって? よくやった、明日に響かないようにだけしてゆっくり帰っといで!」
の一言で終わってしまった。
「……ユウのお母さん、どんな魔法をつかったんすか?」
「べつに? 全部聞いていたでしょう? ありのまま、ゲンキくんの素敵なところをお話しただけよ?」
そう言って、ユウに風呂に入ってくるように伝える。ユウは母親の言葉に嬉しそうに返事をすると、廊下のほうに姿を消した。
「あ……しまった、俺、風呂の湯を抜いてません!」
「あら、そんなことしなくていいのよ? もったいないし、ユウも気にしないでしょうし」
シオリさんは笑って答えたが、ゲンキの方が気にしていた。なにせ、さきほど自分がユウを思い浮かべて股間を熱くしてしまった湯なのだ。
その湯に、今度はユウが浸かる。ユウと変なつながり方をしてしまうような気がして、ものすごく、気が引ける。
「ゲンキくん、すこしだけ、おはなし、いいかしら?」
「ウチのユウ、やっぱり、変わってるって、思ってるでしょう?」
まっすぐ見つめられながら直球を食らい、ゲンキはのけぞった。
「ふふ、いいの。あの子、変わってるのは、昔からだから」
「い、いや……人はそれぞれ、個性ってありますから……」
「性学習でしたっけ? 今の学校は進んでいるのね。避妊具の使い方とか、妊娠のこととか、いろいろ学校で教えてくれるんでしょう?」
さらにのけぞるゲンキ。
まさかTE〇GAの話、バレてるのか? ――ゲンキは背中に冷たいものが走る。
「先日は、
「え、あっハイ……!」
TE〇GAではなかったと全力でホッとしたゲンキは、力強く何度もうなずいた。
ひとが、ひととして生きる――肉体的な性と、心の性と、表現の方向性――それはもっと自由なのだと、
シオリさんは、ゲンキの返事に微笑んだ。
「あの子は、ゲンキくんに会うまで、本当に友達がいなかったの。変わってるから、というのもあるけれど、あの子は基本的に、人を信じられないできたから」
「人を信じられない、ですか?」
ユウの、人懐っこい柔和な笑みを思い浮かべる。
あれのどこが人を信じない顔だというのだろう――ゲンキは首をひねる。
「ふふ、それはね、ゲンキくんだから。あの子はほんとうに、ゲンキくんが好きなのね」
シオリさんの言葉に、ゲンキは複雑な思いになる。
最近のユウはいろんなときにゲンキのことを好きだと言うが、ユウのことを「トモダチとして」好きなのだと、最初に口にしたのは自分だと、ゲンキは思っている。
自分が言ってしまったから、ユウも「好き」を口にし出したのだと。
「あの子があんなに明るくなれたのは、ゲンキくん、あなたのおかげなの。さっき、ゲンキくんのお母さんに話した思い、あれはみんな、わたしの本音。――ゲンキくん、ユウとお友達になってくれて、ほんとうに、ありがとうね?」
シオリさんの優しいまなざしに、ゲンキは胸が熱くなる。
だが同時に、ゲンキは人の役に立てたことをうれしいと思う反面、重いとも思ってしまった。
ユウのことは、トモダチとして大切にしたいと思う。けれど、あくまでもトモダチなのだ。短ければ、あと一年と半分の付き合いの。
まるで、ゲンキのおかげでユウが変わった、と言いたげなシオリさんの言葉は、ゲンキにとって、随分と重いものに感じられたのである。
だが、それは期待されているということでもあるのだ。
『ひと様の恩は絶対に忘れるな』
両親の言葉が脳裏をかすめる。
なんの、自分だけがユウに与えているんじゃない。自分だって、宿題をフォローしてもらっているとか、楽しい高校生活とか、そして美味い飯とか、恩を得ているじゃないか――ゲンキはそう、思い直す。
ちゃんとギブ&テイクが成り立つ、対等の関係なのだ。
「大丈夫ですよ、俺だってユウとトモダチになれて、いろいろ世話になってますから。お互い様だし、俺、ユウといて楽しいですから」
ゲンキの言葉に、シオリさんは、少し、目頭を押さえて、うなずいた。
パジャマ姿のユウは、いつもの学校の制服とは違って、実に新鮮だった。
白を基調としたそれは、全身をひよこと「piyo」が淡い青でプリントされたもので、何というか、とても可愛らしいものだったが、そのパジャマ自体、ユウが気に入った布を買ってきて、それで作ったのだという。
「料理もできて服も作れるって、マジでマルチタレントだなユウは!」
そんなことないよ、とはにかむユウを、ゲンキは玄関まで一緒に歩きながら大絶賛し続けた。
「ゲンキ、ごめんね? 遅くなっちゃって……。帰ってくれてて、よかったのに」
「お前にサヨナラ言ってないのに、帰れるわけないだろ」
「ゲンキはほんとに義理堅いね」
玄関を出ると、ユウがゲンキの手を取った。
「今日、来てくれて、ほんとうにありがとう。ボク、すごく、うれしかった」
「……いや、俺、返信も遅れたし……」
「ううん? ゲンキはちゃんと来てくれた。ボク、夢かと思っちゃったくらい、うれしかったんだよ?」
「夢って、大げさな」
「大げさじゃないよ?」
ユウは、小さく微笑む。
「ゲンキは、ボクの、すべてだから。これからさき、どうなっても、ボクはゲンキと出会えて、こうして共に過ごせたことを、ずっと感謝できる。
――ゲンキ、ボク、ゲンキが好きだよ」
ユウの瞳に、星が映る。
綺麗だ、とゲンキは思った。
その、綺麗な瞳を、今、自分は独り占めにしているのだとも。
その瞳の持ち主が、こんなにも、自分のことを欲してくれている。
自分のことを、すべてだと言ってくれる。
――どうして、俺たちは、今の関係なのだろう。
――どうして、俺たちは、トモダチなのだろう。
ゲンキは、その瞳が、そっと閉じられたのを見て、自分も目を閉じる。
せめて、今この時間だけは、全てを自分だけのものにしたかったから。
唇への勇気はなかった。
でも、風呂上がりの頬は、
すべすべで、
やわらかくて、
しっとりとして、
――忘れ得ぬ感触となった。
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