第60話:ボク、およめさん、ぽかったかな?

「えへへ、ゲンキ、ありがとう」


 レジ袋の中から取り出したクリームタルトを、両手で持って頬張るユウ。

 決して大きなものではないはずなのに、ユウの小さな口には妙に大きすぎるように感じられる。多分、ゲンキなら三口もいらずに食べてしまうだろうに、なにやら大事そうに少しずつ食べるさまが、小動物っぽい。

 なんとなく、リスがドングリを口に押し込んでいるように見えて、ゲンキは頬杖を突きながら、小さく吹き出してしまった。


「……ゲンキ、いま、鼻で笑ったでしょ。ボク、なにか変なこと、した?」

「なんでもないよ」

「うそ。絶対、ボク見て、笑ったもん」

「……可愛かったからだよ、ユウが」


 目を丸くして固まり、次いで視線が泳ぎ、見る見るうちに頬が赤く染まってゆくユウ。肌が白いだけに、その変化がよく分かって、ゲンキはまた小さく吹き出してしまった。


「また笑った……! ゲンキ、ボク、そんなに変、かな……?」

「変じゃないって。仕草が可愛い、それだけでユウは俺にとって最高の価値がある。ずっと眺めていられる」

「な、なな、なに言ってるのゲンキっ!?」

「だから、可愛いからだって言ってるの」

「そ、そうやってからかうの、やめてよ! ボクだって、おこるんだよ?」

「可愛いって思ったって正直に言ったら怒られるのかよ。ユウはおふくろさんみたいだな」


 ゲンキが笑うと、ユウはさらに目を丸くして、うつむいてしまった。


「……ユウ?」

「ぼ、ボク……」


 なんだか落ち着かない様子でしばらくもぞもぞしていたユウは、顔を真っ赤にしたまま、上目遣いでゲンキを見る。


「そ、そんなにその……ボク、およめさん、ぽかったかな?」

「……お嫁さん?」


 今度はゲンキが固まる。

 自分の発言を必死に思い出してトレースしてみるが、自分がそんなことを言ったつもりは全くない。確かに『おふくろさん』と言ったはずだと、何度も頭の中で自問自答する。


「……ええと、その……正直に言ったのに叱る、俺のおふくろみたいだなって意味で言ったんだけど?」


 ゲンキの言葉に、ユウがきょとんとする。

 顔色が冷えていき、そして今度はまた、別の意味で赤くなったようだ。


「あ、あははは! そ、そう、だよね! ぼ、ボク、な、なに言ってるんだろ! そうだよね、あははは!」


 必死に笑ってみせるユウに合わせて、ゲンキも笑い飛ばす。


「ユ、ユウは相変わらずだな! そんなトコも、まあ、可愛いんだけどな!」


 再び固まるユウ。

 口が滑ったと固まるゲンキ。


 なにか、何か言わないと。

 ゲンキは必死で無難そうな話題を探す。


 ――思いつかない! ああもう、こんなときに!


 ちらちらと部屋中を見回し、なにか話題になるものはないかと探り続け――

 時計の針が、もうすぐ七時半を示そうとしていることに気づいた。


「……そういや、ユウのおふくろさん、遅いな!?」

「そ、そうだね、えっと、……お母さんの話だと、あ、あと30分くらい、かな……?」

「30分か、じゃ、もうすぐ帰ってくるんだな?」

「そ、そう、だね……!」


 ふたたび沈黙する。


 ――あと、30分で、ユウの母親が帰って来る。


 その前に退散したほうがいいだろうか。

 それとも、せっかく来たのだし、挨拶だけでもして帰った方がいいのだろうか。

 ――そうだ、せっかく来たんだから、ちゃんと挨拶するべきだ。その方が礼儀にかなっているはずだ。


 そうすれば、あと30分、ユウと過ごすことができる。

 30分過ごす、正当な理由を得ることができる。


 むりやり自分が居残る理由を作っている――ゲンキはそう自覚しつつも、思いついたアイデアにしがみつくことにした。


「あ、あと30分か……。じゃあ俺、それまで待つよ。せっかく来たんだし、ユウのおふくろさんに挨拶、していきたいしな」

「そ、そう……だね。うん、ゲンキの言う通りだよね。……じゃ、じゃあ、あと30分、いてくれる、んだね……!」


 ひきつった笑顔のまま、ユウはタルトの残りを口に押し込んだ。

 その、小さな口に。

 案の定、見事にのどに詰まらせ、立ち上がって苦しそうにミルクを口に含み、小さくむせて、そしてこぼす。


「……なにやってんだよ」


 ゲンキは呆れながら立ち上がると、背中を叩いてやるためにユウのほうに向かった。


「だい、じょう、ぶ、だか、ら……!」

「全然大丈夫に見えねえって」


 華奢な背中を叩こうとして、けれどなんだか吹き飛んでしまいそうで、さすってやることにする。


 ――あれ?


 ゲンキは違和感を覚えた。

 ユウの背中に、何も感じられないのだ。

 ユウの背中は、いつも、包帯のような硬い布でぐるぐると覆われている感触があるのだ。

 背骨の矯正か何かのための、コルセットでもしているんだろう――ゲンキは、ユウの背中の違和感を知ってから、ずっとそのように解釈してきた。


 なのに、今日は、その違和感の元がない。

 すべやかな肌を感じる。


 違和感がないことに違和感を覚える。

 一日、部屋で寝ていたからだろうか。


 唐突に、あのときの保健室――華奢な背中を晒していた、あの白い裸身を、鮮明に思い出してしまう。

 あのなまめかしい肌を。細く、しなやかなうなじを。


 それを意識してしまうと、ユウの華奢な背中に、パジャマ越しとはいえ直接触れている気がして、ユウのなめらかな肌に触れているように錯覚してしまう。


 もう少し――もう少しだけ――これはユウのため、むせるユウのためなんだと自分に言い聞かせながら、しかし、激しくなってゆく動悸を抑えられない。


「ご、ごめ……んね、ゲンキ……」


 まだすこしむせながら、それでもユウは、背中越しにゲンキを見上げて微笑んでみせた。


 すこししっとりとした柔らかな髪が、ゲンキの口元をくすぐる。

 うなじから肩にかけて、わずかにのぞく白い肌が見える。


 口元から、こぼしたミルクの筋が首から胸元にかけて筋を作っている。

 ミルクの筋は、そのまま胸元の闇に、吸い込まれるように消えている。


 乱れた髪が頬に、首筋に貼り付いている。

 クリームの、ミルクの甘い香りが、その口元から漂ってくる。


 コーラルピンクの艶やかな唇が、小さく動いた。


「……ゲン、キ? か、顔、ちかい、よ……?」


 ゲンキは答えない。

 答えられない。


 ユウの口元から垂れて筋を作っているミルクが、見えてはいけない別の何か・・に見えてしまって、ゲンキは、自分の業の深さを自覚する。


 甘い香りに、頭がくらくらしてくるようだった。その香りがユウの口元からというのがまた、ゲンキを引きつけた。

 体形がつかみづらい、アンバランスな大きさのパジャマが、ゲンキをいっそう惑わせる。


「ゲンキ……?」

「……わるい、ユウ。俺、もう、ダメかもしれない」

「げ、ゲン……キ、だ、だめだよ、ボク、いま……」


 ゲンキは、ユウの小さな手のひらに自分の手のひらを重ねると、そのまま握りしめた。


「――あっ……、ん……」


 


 がちゃん。


 テーブルに走った振動で、二つのコップが音を立てた。

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