60枚目 当主として、一人の父親として

 薫が発した言葉を最後に、部屋には静かな沈黙が落ちた。

 息の詰まるような沈黙は、実際のところ数秒に満たなかったのかもしれない。けれど、薫にとってはこの時間が永遠にも感じられた。


『お前は……それで、いいんだな』


 しばらくして、父の小さな声が落ちた。

 ゆっくりと父が椅子から立ち上がり、テーブルを挟んで向かい側に座る薫の元へ歩を進める。

 予想していた行動とはいえ、びくりと微かに肩が震える。

 衝撃に備えるように、薫は反射的に目を閉じた。


(やっぱり駄目だったか……)

 

 やはり自分は、数時間前の二の舞を踏む事になるのだ。

 そう思い、ぎゅうと目の前が赤く染まるほどまぶたをきつく閉じる。

 けれど、いつまで経っても父からの罵倒はなく、かといって殴られる気配もない。


(なんで何もしてこないんだ)


 頭の中に疑問が生じつつ、薫は閉じていた瞼をゆっくりと上げる。


『っ』


 どくん、と心臓が大きく跳ねた。

 それは父を畏怖することから来るものではなく、もっと別の真逆なもの。


『とう、さん……?』


 父は何も言わなかった。

 数時間前に見せた憤怒の表情ではなく、子を慈しむ時に見せる優しげな顔で見つめていた。


(なんで、そんな顔をするんだ)


 困惑している間に、父がゆっくりと手を上げた。

 今度こそ手酷く暴力を振るわれるのではないか。思わず肩が強ばるが、父は薫の肩へそっと触れるだけだった。

 予想していなかった手の温かさに、行動に、薫はほんの少し目をみはる。


『父さん、何を……』


 困惑しながらも、薫は言葉を紡いだ。

 このまま黙っていたら何にもならない。

 そんな思いから父の手が触れる肩を、次いで父を見上げる。


『──すまなかった』

『っ』


 空耳だろうか。父が謝罪の言葉を口にしたのは。

 少なくとも、薫の記憶には幼少期の時ですら無かった。


『私はお前のことを誤解していたようだ』


 薫の肩に手を置いたまま、父はぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


『何も言わず私の跡を継いでくれるとばかり思っていたが、この一年で変わったのだな』


 囁くような口調は、本当に父から発されたのか。

 何にも変え難いけわしい表情は、本当に薫が知る父なのか。


 おかしい。そんな言葉が薫の脳裏をぎった。


『お前が帰って来てくれたからか、私も気が緩んでいたようだ。すまなかった』


 声音はか細く、表情はどこまでも暗い。心做こころなしか、薫には父がやつれて見えた。

 今も昔も薫の記憶には無い、弱気な父の姿を初めて知った気がした。


『簪屋を大事にしている事は十分に分かった。畳む気が無い事も分かった。だが、爵位は継いで欲しい。いや、継いでくれ──今後の鷹司家の繁栄のためにも、お前でないと駄目なのだ』


(なんで、父さんは逆のことを……)


  懇々こんこんと発される父の言葉は、数時間前とは比べ物にならない。

 理性では、これが父の本心なのだろうと思う。

 しかし裏を返せば、薫の意思で「爵位を継ぐ」と言わせたい、というどこまでも策略に長けた男のようにも見えた。


『薫、頼む。この通りだ』

『父さん……!?』


 そうして父はあろう事か、赤と黄を中心としたあざやかな刺繍のほどこされた、豪奢ごうしゃな床へ両膝を付いた。

 自身の息子になんの躊躇ためらいもなく、少しの疑念も抱かずにひざまずく父の頭頂部を、薫は黙って見つめることしかできない。


『顔を』

『──俺はな、薫』


 薫が何かを言う前に父は顔を上げ、やんわりとさえぎられた。

 強い意思のある、幼い頃から知る瞳にじっと見つめられると、無意識のうちに頬が引き攣った。


『お前が寂しい思いをしていた事に、見て見ぬふりをしていた。これはもう変えられない事実だ』


 そこで父は言葉を切り、何かを堪えるようにきつく目を閉じた。


『本当はもっと、一緒に遊んでやりたかった。お前も含めた子供たちと、毎日が楽しいと思えるような家族になりたかった。それでも、長男であるお前を立派な次期当主へする為だと、ずっと言い訳をしていただけだった』


 自分だけが辛い思いをしていた訳ではない、と父は言いたいのだろう。

 言葉の節々から、懺悔ざんげとも取れる父の嘆きが伝わってくる。


(今更、何を)


 薫が耐えるしかなかった十数年は、両親の猜疑心でいっぱいだった。


 いつか「鷹司」という名を捨て、自分の思う通りに生きていこう──何度思い描いたのか数えきれない。

 自分は爵位を継がないからと、弟に爵位を譲るべきだと、そう何度となく考えてきた。


 しかし、父の想いを知ってしまったら何も考えられなかった。

 辛かった幼少期はどう足掻こうと戻らない。

 ただ、父が後悔しているように、母にとっても辛い日々だった事は十二分に分かった。


 だから母は謝った。

 幼い頃に出来なかった事をずっと与えたかったというような、そんな数時間前の出来事が薫の脳裏に浮かんでは消える。


 父も父で同じなのだろう。

 母以上に憎まれている自覚のある自分を、「許して欲しい」と薫にこいねがっているのだから。


『今更こんな事を言っても、手遅れでしかないのは承知だ。だが、俺は……この身はもう』

『て、くれ』


 内から湧き出しそうな想いを、そこから先の言葉を、ぐっと堪えるように薫はふるふると首を振った。

 もう聞きたくなかった。

 それと同じくして、薫の知らない弱気な父を見たくなかった。


『長くないんだ』

『やめてくれ……!』


 生きる事さえも諦めてしまった、そんな表情を見たくなかった。

 薫の知る父は、鷹司誠という男は、いつだって厳格で弱音など吐かない人間なのだ。


 薫は反射的に椅子から立ち上がる。がたりと耳障りな音を響かせた。

 これから薫が何を言おうとしているのか、この場に居る誰もがわかっている。全員の視線が自分に向けられている緊張感も合わさり、かたかたと膝が笑いそうになる。


『もういい。もういいんだよ、父さん』


 幼子に語りかけるように、父へ向けて言葉を紡ぐ。

 ここで思いのままに怒鳴ってしまえば、それこそすべての関係が壊れてしまうような気がした。


『だが』

『もう、いいんだ』


 抗議しようとする父を遮り、薫はもう一度同じ言葉を続ける。


『もう、十分にこの家を盛り立ててくれた。俺に厳しくしていた理由も、この家の未来を思えば納得もいく。爵位は継ぐよ。でも、一つだけ許してほしい』


 そう言って、薫は床に膝を着いた。

 未だに跪いたままの父の強い視線とかち合い、口をつぐみそうになる。

 けれど、言わなければどうにもならないのだ。

 またとないこの状況を、父の納得する言葉で終わらせるには。


『簪屋は続けさせてください。貴方が俺に厳しくあったように、こればかりは俺も譲れないんだ』

『薫……』


 数時間前に断られた事をもう一度、殊更ゆっくりと口にする。

 きっと今の自分は、なんとも言えない表情をしているだろう。


(ずっと叶えたかったものを手放せないから)


 自分の店を持ちながら、侯爵として家業を継ぐのはどれほど労力がかかるだろう。

 父が導いてくれるとしても、それ以降の自分に務まるとは思えない。

 けれど、今ばかりは父の望む通りにしてあげたいと思った。


 遠くない未来、薫の選択が間違ったものではなかった。

 ──そう思えるほどの決断をしたと、未来の自分に思わせたいのだ。


『お願いです、どうか……!』


 ぎゅうとかたく瞳を閉じる。

 言いたい事はすべて言った。あとは父の出方次第だろう。


『薫』


 そんな薫の内なる想いが伝わったのか、父がそっと肩に触れてきた。

 かつての幼少期に感じ取ることのできなかった温かく優しい手は、薫が待ち望んでいたものだった。


『お前の願いは分かった。言う通りにしよう』


 薫の知る厳格な声音は、普段の父そのものだ。ただ一つ違うのは、十数年の時を越えて和解したという事だろう。


『では』

『但し、一つ俺からも願いがある』

『願い?』


 唐突に人差し指を突き付けられ、薫はこてりと首を傾げた。


(無理難題を吹っ掛けられるんじゃないだろうな)


 心の奥底で小さく悪態を吐きつつ、父の言葉を待つ。

 しかし何を言われようと、もう薫は怖くなかった。

 幼少期の恐怖が転じて畏怖した事はあれど、それ以上の感情は微塵も無かったのだから。


『あー……、なんだ。近いうちに絢子と店へ出向くから、待っていてくれないか』

『え』


 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。

 言われた事を理解する間が数分のように感じた。


 父の少し弾んだ声音を、ほんのりと照れた表情を、薫は嘘だとは思わない。


 薫が幼少期だった頃から秘めていたであろう沢山の事を、父は本音で話してくれたのだから。


『……はい。お待ちしています!』


 今の今まで鬱々としていたが、この時ばかりは晴れやかな声が薫の口からすっと出た。

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