57枚目 父に伝えたい
一言一句はっきりと言葉にすると、涙が溢れそうになる。
こうして父に向けて何かを言うのは十数年ぶりだ。
二十年ほど前、両親が二人で話している時の会話を聞いた事を
両親から「ただの駒」という現実を突き付けられた事実が、少なからず薫に傷を負わせていた。
(まぁ……届くわけないよな。この人はもう長くない)
父は薫が傷付いている事を知らずに、ほどなく死んでいく。
生気のない顔色が、そう予感させていた。
『……か』
それほど大きな声ではないはずだが、父の耳元で囁いたからだろうか。
父が薄らと瞼を押し上げ、ゆっくりと声のした方──薫を見た。
『かおる、か……?』
記憶の中にあるよりもしわがれた父の声が、しんと静まり返った部屋に響いて消えた。
『はい……薫、です。遠野に連れられ、先程帰って参りました』
父の瞳にはしっかりと薫が映っているから、視力は衰えていないのだろう。
しかし、声音や深く刻まれた顔の皺を見る限り、同年代に比べるとやや老いているように感じる。
一年の間に父の身に起きたのは、何も病だけではないのだと推察できた。
(父さんを可哀想と思わないとは、俺も非情になったもんだ。いや……違うな)
昔から家族を
(俺も報われたとは言わないけど。それでも)
実の父親が死の淵を
部屋の空気も
(言わないといけない。この一年で俺は夢を叶えたって。もうこの家とは縁を切るって)
薫が父の寝室に居る限り、母が傍に居るのは明白だ。後ろで椅子に座っている母から、微かに圧力を掛けられているように感じる。
余計な事は言うな、と。
言うことを言ったらさっさと帰れ、と。
それが薫の思い過ごしであればいいが、どちらにしろこの部屋の空気感に慣れそうにない。
(後悔する前に言うべきだ)
頭の中で考えていた言葉の数々が、うっすらとだが輪郭を持って薫の口から出ようとする。
言ってしまえば、もう後戻りはできない。
母が何を言おうと、薫は鷹司の名を捨てる。それほどの覚悟を宿して戻ってきたのだから。
『母さん、遠野も。今から俺が言うことを聞いてほしい』
ちらりと後ろを振り返ると母の方を、続いてドア付近で静かに立っていた遠野に言葉を投げ掛ける。
『……分かったわ』
『はい』
母はほんの僅かに目を見開いたが、落ち着いた声音で同意した。
遠野は薫が何を言おうとしているのか、心得たというようにゆっくりと頷く。薫は鷹司家へ戻る道中に、これから話すことを掻い摘んで遠野に伝えていた。
『絢子、手を貸してくれ』
父も何かを悟ったのだろう。深く皺の刻まれた手を母に向け、名を呼んだ。
『はい』
僅かに戸惑いつつも母──絢子が父の手を取り、ゆっくりと起き上がらせた。
父は人の手がなければ何もできないまでに、体力が衰えているようだった。
病に倒れて一度は
五十を超えるまで精力的に働き、何度も休めと促したが「鷹司家の為に」と言って聞かない、と道中で遠野から聞いたのは記憶に新しい。
(仕事に生きて、最後は病に倒れるか)
落ち着いた頃を見計らって、薫は父に向けて言葉を紡いだ。
『父さん。貴方が俺を息子として見ていないことはずっと……二十年前から知っていました。貴方の望む「頼りになる次期当主」になろうと、俺は昨年まで努力してきたつもりです。今回戻ったのは、遠野に言われたからというのもありますが、改めて俺の口からお知らせしたかった』
そこで薫は言葉を切る。
父は腕組みをし、目を閉じて薫の言葉を聞いていた。
(落ち着け、何度も考えてきたはずだろう。今更何を怖気付いている)
何度目とも分からない自問自答を繰り返し、やがて薫は意を決したように口を開いた。
『鷹司家の……貴方の後を継いで当主へなることを、お断りしたく思います』
それまで何も言わず静かに聞いていた父が、どこにそんな力があるのか、というほどの強さで薫の手首を掴んだ。
『が、……ていた、と』
『父さん?』
ぼそぼそと何事かを呟く父に首を傾げつつ、薫は微かな違和感を覚えた。何かが違う、と。
(なんだ……?)
薫が考えを巡らせようとしていると、父の瞳がこれでもかと見開かれた。
『っ!』
それと同時に強い力で父に胸ぐらを掴まれ、薫は父の寝台に頭を打ち付ける。
スプリングという弾力のある寝具は、ふわふわとした柔らかい素材のため痛みは無い。
けれど、父の逆鱗に触れたと思った時には遅かった。
『私が……私が間違っていたと言うのか!?』
怒気を孕んだ父の声が頭上から響く。
未だ目を白黒させている薫の頭を、先程よりも強く押さえ付けられた。
スプリングにめり込むようにされると、いくら柔らかい素材だと言っても息が苦しい。
『お前は私が何も考えていないと思っていたのか!? 一年の間に
『うっ……ぐ』
父が言っていることはもっともだ。けれど、頭の中に何かが詰まってしまったように何も考えられない。
ぐいぐいと力を加えられる手に
『それをお前は
不意に頭への圧力が消えたかと思うと、今度は首根っこを捕まれ強引に頭を上げさせられた。
バシン!
『いっ……!』
乾いた音が静かな部屋に響き渡ると同時に、薫は勢い余って後ろに尻餅をついた。
父に殴られたのだ、と数瞬の時を置いて理解する。
『薫!』
『薫さま……!』
それまで黙って傍観していた母が、遠野が、悲痛な声を上げた。
遠野は駆け寄ろうとしたが、薫は手で制する。殴られるかもしれない、と予想していたからだ。
じんじんと頬が痛む。
まるで数十年「鷹司」の家名を守ってきた父の思いの丈のようで、更に痛んだ。
けほ、と薫は唾を吐いた。
(……血の味なんか久々だな)
どうやら口の中が切れたらしく、特有の鉄臭い味がゆっくりと口内に広がっていく。
それと同時に、すっと頭の中が冷静になる。
父はただ、自分の思い通りにならない息子に腹を立てているだけだ。
苛立っている父は、長年の側近──遠野であっても止められない。薫はそんな父以上に冷静になる必要があった。
『父さん、話を──』
『もういい!』
ふらつきつつも薫が立ち上がろうとすると、それよりも早く父の罵声が響いた。
『全員出ていけ、私が良いと言うまで誰も入るな』
ぎろりと薫だけならず遠野と母までも
『……分かりました。薫』
行きましょう、という声と共に母に肩を叩かれた。
一年ぶりに触れた母の手は、衣服越しだったが確かな温もりがあった。
『はい』
震えそうになる声を叱咤し、母の後をついて父の寝室を出る。その後を一定の距離を空け、遠野が付いていく。
遠野がドアを閉める音が聞こえても尚、父の底冷えする声が薫の耳に残った。
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