56枚目 鷹司家の者

 汽車を乗り継ぎ、二時間近くをかけて鷹司の家が建つ区域までやってきた。

 坂城夫妻の家を出た時は青空が広がっていたが、今は薄ぼんやりとした茜色に染まっている。


 遠野を後ろに従えて大門をくぐると、どっしりとした建物が薫を迎え入れた。


『……変わってないな』


 薫の目の前にそびえ立つのは、かつての生家だ。

 ここまで通ってきた道も、屋敷の外観も、ほとんど薫が居た頃と変わりなかった。


 青々とした草木の茂る庭は、鷹司家お抱えの庭師たちの手入れが行き届いているのか、記憶の中にあるものよりずっと秀麗だ。    

 広大な庭に囲まれた大きな建物は、そのさまに相応しいほどの迫力がある。


(こんなにでかかったか……?)


 薫はその場で屋敷全体を見回した。

 家を出る前に比べて、建物全体がまるで山のように感じる。

 二十五年近くを屋敷で過ごしたはずだが、たった一年の間で感じ方が変わるものだろうか。

 しかし、そんな違和感とは裏腹に、得も言われぬ懐かしさが薫の心をじんわりと満たす。


『薫さま』


 そうして一人思案していると、それまで黙っていた遠野が後ろから遠慮がちに名を呼んだ。


『っ、なんだ』


 びくりと一瞬肩が跳ね上がるも、薫はすぐさま遠野の方に向き直った。


『奥のお部屋で奥さま方がお待ちです。……お早く参りましょう』


 薫の緊張をほぐすためか、遠野がやんわりと微笑した。


『そう、だな』


 鷹司家へ戻ってきた目的を、申し訳ないが遠野に声を掛けられるまで忘れていた。


(何を怖がることがある)


 微かにだが、両親から今の自分を認められるかもしれない、という淡い期待が、ふつふつと湧き上がっていた。

 それと同時に、嫌悪されるかもしれない、というどんよりとした思いが浮上する。


 父は屋敷を入ってすぐの奥の部屋で眠っているという。

 屋敷の扉を開けた先は、昨年まで住んでいた懐かしい我が家だ。


(落ち着け。ここへ来たのは、今の俺のことを報告するだけだ。それ以上は何もない)


 すぅ、と一度深呼吸をして心を落ち着ける。

 所々錆び付いているドアノブに手を掛け、薫は扉を開けた。

 そのそば近くでは、沢山の太陽の光を浴びてすくすくと育ったであろう樹々が、風に揺れてさわさわと音を奏でていた。



 奥まった場所にある主の部屋の扉を、遠野が一定の間隔で三度叩いた。


『入って』


 しばらくして控えめな応対の声が響く。


(母さんの、声……?)


 しっとりとした耳に馴染む声音は、紛れもない母のものだとすぐにわかった。

 幼少期から何度も自分に向けてほしいと思った、焦がれてならなかった声を薫が間違えるはずがない。

 けれどその声も今は少し掠れ気味で、どこか頼りなかった。


(体調を崩されたのか……?)


 どくりと心臓が嫌な音を立てる。

 普段からしたたかな母の心労をきたすほど、父の容態は思わしくないのだろうか。


『遠野にございます。薫さまをお連れして参りました』


 けれど、そんな薫の心配もよそに遠野がゆっくりと扉を開けた。


『っ』


 薫は反射的に目を見開く。

 普通よりも豪奢ごうしゃ寝台ベッドには、言わずもがな父──まことが蒼白な表情で横たわっており、その傍らには母である絢子あやこが、俯きがちに椅子に腰掛けていた。


(なんだ、この……違和感は)


 目の前に映った光景が、部屋中の空気が、薫の想像していたものとは違ったのだ。


 父の危篤となると、とっくに成人を迎えている弟妹たちも部屋に集まっているはずだが、その影すらない。

 あるのは両親と、たった今部屋に入ってきた薫と遠野だけだった。


(そういえば、家に入ってから人の気配すらなかった)


 その事におかしいと思うまで、そう時間は掛からなかった。


(まさか使用人を全員解雇したのか……?)


 まだ薫が尋常小学校じんじょうしょうがっこうへあがったばかりの頃の事だった。

 祖父はとうに七十を超え、日に日におとろえていった事をさかいに、屋敷の中はがらんとした静寂が訪れた。


 鷹司家の屋敷は広い。掃除をするにしても、細々とした雑用があり、それを何人もの使用人が分担している。

 女中メイドから執事、──薫は一人である程度のことが出来たから必要なかったが──鷹司家の血縁者全員に付く世話係兼側近まで、沢山の使用人が屋敷を出入りしていた。


 祖父が病にすまで薫はあまり意識したことがなかったが、自分の住む家は数多あまたの人間が居るから生活出来ているのだと知った。

 しかし、その使用人らを解雇する事は、当主の代換えが近いという事を暗に示しているも同義だと言えた。


 ほとんどの使用人に新しい勤め先を紹介すると、屋敷に残ったのは昔から勤める人間が数名、といった程度だった。


 まだ世間の「せ」の字を知ったばかりだった薫には、何故使用人を変える必要があるのか分からなかったが、二十年近くが経った今なら理解できる。


(そんな事をしなくても、何か他に方法があっただろうに)


 使用人を解雇するだけで、どれだけの金が要るのかは容易に想像がつく。

 その莫大な金は、祖父が華族となってから築き上げたものだった。


 それほどの大金を、父は余すことなく使った。その後の祖父をいたむ葬儀費用から参列者への礼金からがあるのに、だ。

 まるで使わねば損だ、と言っているかのように湯水の如く金を使った事で、社交界の裏では「蕩尽とうじん侯爵」と呼ばれているらしい。


(お爺さまはこんな息子を持ってあわれに思うだろうな……)


 祖父は薫に、「立派な跡継ぎになれ」とは終ぞ言わなかった。

 むしろ使用人らと同じように話し相手になってくれ、遊んでくれる事の方が多かった。

 だから自分をかえりみてくれなかった両親よりも、祖父の方が好きだと言える。


(父さんはきっと罰が当たったんだ)


 薫としては、ずっと仕えてくれるほどの使用人こそを大事にしたかった。

 自分の限界まで働きたい、と思っていた使用人らは少なくなかったように思うのだ。

 実際、幼かった時分に使用人が父に「まだ働かせてくれ」という場面に何度も遭遇した。


 ここまで余すことなく忠義を尽くして働いてくれる人間は、後にも先にも居ないだろう。

 けれど父の押しに気圧され、何人もの使用人が本意ではない次の仕事先へと去っていった。


(お爺さまの罰が)


 薫は祖父の哀悼の意から逃げるように、ぎゅうと強く目を閉じる。

 遠野の父は若い頃から祖父と親交があった。その縁で祖父が爵位を持ってからは、筆頭執事長として精力的に働いた。


 盟友であり、主従以上に信頼し合っていた祖父が危篤となると、信じていなかった神に懸命に祈ったという。


 まだ連れて行かないでくれ、あと少し俺と共に生きてくれ、と祖父の手を握りすがったのを薫は薄ぼんやりと覚えていた。

 それほどまでに想い想われた祖父は数日後の明朝に、小さな自室で一人安らかに旅立ったという。


 しかし、祖父が亡くなると遠野の父は数日もせず隠居した。

 祖父の跡を継いだ父が解雇したのでは、と少ない使用人たちが揃って噂していたのを薫も聞いていた。


 その噂が嘘か真か今も分からないままだが、人を疑り深く、一度決めた事は頑として曲げない父のことだ。きっと遠野の父と一悶着があった事で、いとまを出したのだろう。


『薫さま』


 ややあって遠野に静かに名を呼ばれ、薫は現実に引き戻された。そして、ゆっくりと父の寝室へ足を踏み入れる。

 どくりと心臓が脈打つのは、緊張からだろうか。それとも、ただただ怖いだけなのだろうか。


(いや、両方だろうな)


 自嘲気味な吐息を吐き、薫は寝台にほど近い椅子に座っている母の前を通って、父の眠る寝台へ膝をついた。

 顔面蒼白の父の表情をぼうっと見ていると、もうそれほど長くないことを示唆していた。


『……父さん』


 ぽそりと紡いだ言葉は、しんと静まり返った部屋へゆっくりと反響し、そして消える。

 言いたいことが沢山あったはずだが、間近で父の顔を見た途端、喉に何かが貼り付いたように言葉が出なかった。


(もう……長くないんだ)


 薫が部屋に入ってきた時からずっと黙っている母の表情が、この場の空気が、すべてを物語っている。

 だから使用人を最小限に留め、次の代──薫に鷹司家を任せようというのだろう。


 そう、頭では痛いほど分かっていた。

 震えてしまいそうな声音を叱咤し、ゆっくりと言葉を舌に乗せる。


『父さん──薫です。貴方の息子が帰って参りました』

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