58枚目 母の本音と父の──
父の寝室を出ると、母を先頭に
薫の後ろには、一定の距離を空けて遠野が付き従っている。
そうして、母が寝起きする寝室へ薫は足を踏み入れた。
パタンと静かな音がすると、決まって訪れるのは静寂だ。
淡い色使いをした部屋は、いかにも侯爵夫人らしい。
けれど、その周りにはひと目見れば
(ここにも久々に入ったな)
幼少期の数年間を除き、薫が母の部屋に入ったのは二十年近くぶりだ。
薫の真正面には母がおり、じっと薫を見ている。
昔に比べて質素な洋装に身を包んでいるが、その瞳は父と同様に
(母さんは……きっと俺に怒ってるんだ)
置き手紙をしていたとはいえ、一年の間なんの音沙汰もなく、かと思えばいきなり戻ってきたのだ。
行動には示さずとも、母は言葉で薫に愛を教えてくれた人だった。しかし、今の母は怒りが湧き上がってくるのを堪えるような、そんな表情で薫を見つめていた。
母は鷹司家の侯爵夫人であろう、と常から努めていたため、多くの事をあまり自分から話さない。
薫が言葉に出さなければ、この沈黙も破られる事はないといえた。
(一か八か言ってみるか)
母から
(結果がどうあれ、俺はこの家と縁を切るんだから)
小さく息を吐き、薫は意を決して口を開く。
『母さん』
ぴくりと母の形のいい眉が跳ねる。
母が何かを言いたい時の癖だ。けれど、口を挟む余地を与えないというように薫は言葉を続けた。
『俺が戻ってきた事、怒っていらっしゃいますか……?』
探り探りとだが、ゆっくりと思ったことを口にする。
数秒の沈黙が、薫にとっては何時間にも感じた。
『そう、ね』
その言葉を聞いた瞬間、やはりと思う。
当たり前だ。手紙一つ寄越さず、遠野が呼びに来なければ戻って来なかったような息子など。
(そういえば……母さんに怒られる覚悟はしていなかったな)
母が感情を露わにしない事は分かっているものの、今から言う言葉の数々はやがて父に伝わるだろう。
縁を切る覚悟はあるが、母から叱責される心は持ち合わせていなかった。
元からあまり母と話せず、寂しい幼少期を過ごしてきた。
そんな薫が自分から何かを言うのは、これが最初で最後となるだろう。
『薫』
そっと母が一歩踏み出し、薫に近付く。
人ひとり分の距離はあろうかというところで、母と向かい合わせで
父の部屋に居た時よりも、母の顔色がやつれているように見えた。
目立たないながらもところどころに白髪が混じり、
細く白い
けれど、
『私は……直接ではないにしろ、貴方に向けて酷いことを言いました』
つっかえながらも紡がれる言葉は、母の本心だと分かった。
怒りを──自分に対する怒りを押さえ込もうとするように、手の平を爪が食い込むほど握り締めている。
『母親失格だということはとうに分かっています。ごめんなさい、薫。ごめんなさい……』
一瞬、薫は何をされたのか分からなかった。
(なんで、俺は)
何故抱き締められているのだろう。
母がもう一歩距離を詰めたかと思えば、ぎゅうと薫を自分の胸に抱き込んだのだ。
正確には身長差があるため、薫の
(怒られて当然の事をしたはずだろう……?)
分からなかった。
この行為は、薫がずっと望んでいた幻が見せたものなのか。
分かりたくなかった。
母が自分に向けて謝罪の言葉を述べるなど、夢でないと有り得なかった。
裏で何を言おうと薫にとって母は母であり、この先も変わることのない事実だ。
父に遠慮して普段は
──そんな母が、泣いているのだ。
薫の胸の中で息を殺し、
『私を許してくれとは言いません。けれど、鷹司家を──この家から出ていく事など、私が許しません』
はらはらと涙を零し、それでもはっきりと紡ぎ出された言葉の数々は、
しかし、鷹司家の血筋を絶やしてはならないという、ひいては鷹司侯爵夫人としての、強い
(やっぱり……俺が居るべき場所はここなんだ)
この家に居たい、と思った。
(でも)
それと同時に「緋ノ龍」へ帰らなければ、と思う。
(俺が戻らなければ、清さんや幸さんを心配させてしまう)
緋ノ龍は薫が一から立ち上げた店で、店と同じほど大切な榊夫妻がいるのだ。
二人とは血縁関係でなかろうと、もう薫の中では血の繋がった「家族」だと言えた。
母の想いに応えたいが、店も大事だった。
(俺は、どうすれば……)
二つの相反する思いが薫の心の内を渦巻いていく。
この際、薫は侯爵家を継いで店には後継者を作り、緋ノ龍の援助をしようというところまで考えた。
そうすれば緋ノ龍を守る事ができるし、榊夫妻に迷惑を掛けずに済む。
けれど、その考えは呆気なく叶えられる事になった。
◆◆◆
弟妹を抜きにしても、こうして温かい食事を家族で食べるのはいつぶりだろう。
薫の目の前には遠野手ずから作ったという、白身魚のソテーや季節の野菜を余すことなく使ったポトフ、一から発酵させたというライ麦パンがあった。
『は……? 父さん、今なんて』
実に一年ぶりの豪華な夕食に
持っていたフォークを取り落としそうになったのは、言うまでもない。
『だから言っているだろう。お前に爵位を継がせると』
父は呆れたような声音で、何とはなしにもう一度同じ言葉を繰り返す。
(おかしいだろ、俺は確かに「爵位を継がない」と言ったはずなのに)
ちらりと真正面に座る父の方を盗み見る。
身体が衰えているとはいっても、しっかりと自分の手で食事をし、自分の足で歩けているのだ。
ほんの数時間前の事なのに、まるで父は薫との出来事をなかった事にしているような、そんな口振りだ。
薫から見て右側──父の隣りには、母が座っている。
母は何事もなかったふうに、白身魚のソテーを口に運んでは、ゆっくりと赤いワインに口を付けていた。
『……薫、返事はどうした』
『っ』
低く威厳のある声に、図らずもびくりと背中が跳ねる。
食事の手を止めた父の鋭い視線は、じっと薫にだけ注がれている。
しかし、父が言う「爵位を継げ」という言葉は、薫が数時間前に断った。
答えは否だったが、自分たちが出ていった後で何かがあったのだろうか。
この感覚を、薫はどこかで知っている。
だから、考えもしない事が頭の中を駆け巡っていくのも無理はない。
(もしかして、父さんは)
有り得ない。そんな事は考えられない。
何度否定しようにも心のどこかでは、いずれそうなるのではないか、と信じきっていた。
(
何十年と鷹司家をその手腕で守り、盛り立ててきた当主──鷹司誠の末路なのか。
数時間前の出来事を忘れ、そう遠くない未来では家族の存在までも忘れるようになるとは。
この時の薫は想像しきれていなかった。
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