59枚目 願いを伝えるという事

『おい、薫』


 突然黙ってしまった息子に腹を立てたのか、父は僅かに苛立った声音でもう一度名前を呼んだ。

 薫はじっと父を見た。

 ぐっと眉間に力を入れ、薫から視線を逸らすでもなく、まっすぐにじっと見つめる父の表情は至って普通の、威厳に満ちた「鷹司家当主」としての顔だった。


 しかし決定的に違うのは、数時間前に薫みずからが辞退した「爵位を継ぐ」という事を、父の口から直接聞かされている事。

 薫が辞退を申し出た時、父は必死の剣幕で怒鳴ったはずだ。


 ──お前は私が何も考えていないと思っていたのか!?

 ──立派な当主となるため、お膳立ててやったのだぞ!?


 数時間前の事だから当たり前と言えば当たり前だが、脳裏にまざまざと父の憤怒の顔が思い出される。

 きっと薫はその時の父の表情を、言われた言葉の数々を、ずっと忘れないだろう。


 無意識のうちにナイフを持っている右手が震える。

 それと同時に、無数の視線に見つめられているような錯覚におちいった。


(もう一度言えば……)


 そっと視線を震えた手に向ける。カチカチと皿にナイフが当たり、この場には似つかわしくない高い音を奏でている。

 きっと、同じ事を父へ言っても結果は同じだ。

 再度怒鳴られ失望されるか、あるいは殴られるかもしれない。

 それを考えただけで、叩かれた頬がじくりと痛む。


(いや、言えないな)


 もしも正直に言えば、数時間前の二の舞になる事は分かりきっていた。


(母さんは……痴呆だという事に気付いているのか)


 視線を母に向けると、薫や父には目もくれず食事を続けている。

 それはとっくに分かっている、という事を暗に示していた。

 だから何も言わず、普段通りにしているのだろう。薫がどういう選択をするのかも、見越した上で。


『父さん』


 ナイフとフォークを置き、薫は意を決して口を開いた。

 声が震えそうになるが、手の平を握って持ち堪える。


(まさか一日で二度も緊張する事になるとは)


 心の中でひっそりと溜め息を吐く。

 言葉を紡ぐ度、父からの視線が少しずつ強くなっていくのはきっと幻覚ではないのだろう。


『当主の件ですが』


 父の顔を見つめ、薫はゆっくりと自分の想いを形にする。

 それと同時に、こめかみに一筋の汗が伝う。

 この選択がどう転ぶのか、すべては父次第だと言えた。


『──俺で良ければ、お受けさせてください』


 そう狭くない部屋に、しばらくの沈黙が落ちる。

 聞こえてくるのは、薫の空になったグラスに遠野がワインを給仕する音だけだ。


『そうか! お前ならそう言ってくれると思っていた!』


 父が破顔したことで、張り詰めた部屋がほんの少しなごやかな空気に戻る。


(よかった。……合っていたんだ)


 己の選択は間違っていなかったのだ。

 薫はひっそりと胸を撫で下ろす。そうして、食事を再開するべくナイフとフォークに手を添えた。


『近々仕事の引き継ぎをするから、なんだ……簪屋だったか。あそこはすべて引き払ってきなさい。いいな?』


 けれど、次に発された父の言葉に耳を疑った。

 かしゃん、と薫の持つナイフが皿に落ち、静かな部屋に高い音を奏でる。


(父さんは……なんて言ったんだ)


 空耳だろうか。父の口から、薫の長年の夢だった「店を畳め」と紡がれたのは。


『は……、何故です?』


 思った言葉は、すぐさま薫の口から吐き出された。


『何故とは随分な言い草だな。お前は侯爵になるのだから、簪屋なぞ続けられる訳がなかろう。私の事業には邪魔でしかない』


 何か不足があるのか、という表情で父が言った。


(俺の店が……邪魔?)


 確かに「緋ノ龍」は父にとっては不要で、事業の邪魔でしかないものだろう。

 売り上げは微々たるものだが、それでも最近は少なからず客がついた。薫の営む緋ノ龍は、たった一年の時を経て軌道に乗ってきたはずだった。


(確かに邪魔でしかないんだろうが)


 他の言い方というものは、父の頭になかったのだろうか。

 そんな薫の考えに気付いているのかいないのか、父は今後の事を嬉々として紡いでいく。


『さぁ、これから忙しくなるぞ。新しい使用人もつのらないとな。これからも鷹司家を共に繁栄させてくれる、腕のある者を──』


 ダン!


 薫がテーブルを勢いよく叩いた事で、父の言葉はそこで途切れた。


『──ろ』


 声が、テーブルを叩いた手の平が、かたかたと震えているのが自分でも分かる。

 自分の事だけしか見えていない父に落胆すると同時に、今の今までずっと静観する母にさえ怒りが湧いてきた。


 分かっている。

 父は痴呆になりつつあるから、爵位を長男である薫に継がせたい、という母や遠野の思いくらい。

 分かっている。

 母が誰よりもこの家を大事にしており、遠野も同じほど盛り立てていくべき家だと思っていることくらい。


 けれど、もう限界だった。否、自分でさえ感情の起伏を止められなかった。


『あんたには、俺の夢をどうこう言える立場じゃないだろ!? もう短いんだ、後は俺に任せて田舎でのんびり暮らせばいい! それだけなのに、どうして口を挟もうとするんだ!?』


 内から湧き出る感情のままに、薫はえた。この際、すべてを言って楽になった方が幾分もマシだ。


『薫』


 母の静かな制止を振り切り、遠野の慌てる気配に気付かないふりをし、──父の瞳を逸らすことなく薫の思いをぶつけた。


『俺はもう大人なんだ……あんたの所有物でも肯定ばかりする人形でもない! 俺の意思に賭けて、これだけは譲らない……いや、譲れないんです』


 父の反感を買っている自覚は、とうにあった。

 帰って来た当初の一度目は罵声を浴びせられた。その時は反論する間もなく、薫はただ黙っているしかできなかった。


 それから数時間が経った二度目の今は、父自ら「爵位を継いでほしい」と言われ、これだ。

 何度薫の願いを口にしても、父の願いは変わらない。

 そう、薫は頭のどこかで理解していた。けれど、認めてしまうのが怖かった。


 もしも認めてしまえば、自分がやってきたすべてが水の泡になってしまうようで。


『父さん』


 ぎゅうと今一度手の平を握り、キッと父を見る。

 薫の真意を探るように──ともすれば心の内まで見透かすように、父は薫から目線を逸らすことなく黙って聞いていた。


 薫が出ていった一年の間に皺の増えた面は、その年齢以上に深く刻み込まれている。

 父一人で苦労してきたのは、十二分に分かっているのだ。その苦労を一番近くで見てきたであろう母にも、今までの恩を返したいと思う。


 どれほど幼少期の出来事が辛くても、薫はもう自分でものを考えることの出来る大人だ。

 この際、爵位を継いで同時に緋ノ龍も──という、浅はかな考えが首をもたげる。


(俺は、俺の意思で)


 この選択が数時間前の二の舞を踏むか、はたまた了承してくれるか。

 父からの言葉は怖い。しかし、どう転ぼうが一度心に決めた事を曲げる気はなかった。


『お願いです。簪屋だけは……緋ノ龍だけは、続けさせてください』


 薫の低く凛とした声が、しんと静まり返っている部屋に響き、やがて消えた。

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