18枚目 密かに想う

 そうして。百合に「喧嘩してるんなら仲直りしなさい!」と言われ、嫌々ながら葵は千秋の部屋の前に立っていた。

 扉一枚挟んだドアから、千秋の負のオーラが流れているようで。


 (怖いぃぃぃぃ!!!!)


 ここまでは葵の想像でしかないので、なんとも言えない。

 些細な事で怒る性格ではないし、寧ろ葵が一方的に避けているだけなのだ。

 千秋は悪くない、と頭では分かっていても少しの理性が拒否する。何故だか分からないが、嫌だと思った。


 (落ち着け私……。さぁ、扉開けて!)


 脳内で某映画の歌を流しながら、ドアノブに手を掛ける。

 ガチャリと音がした。

 恐る恐る部屋の中を覗き見ると、千秋はドアに背を向けて机と向かい合っている。


 「ん……あぁ、葵。帰ってたのな、おかえり」


 にこりと振り返って微笑みを向ける兄は、いつも通り。それに挨拶もしてくれた。


 「……ん、ただいま」


 もそりと口の中で呟くように言う。これが今の葵ができる精一杯だ。


 「もう飯できたのか? 呼びに来てくれるなんて葵はいい子だなぁ」


 今の今まで座っていた椅子から立ち上がると、ドアの前で棒立ちになっていた葵の前まで歩み寄る。

 わしわしと無遠慮に頭を撫でるさまは、やはり優しい兄だ。


 ちらりと机の上を盗み見る。教科書類が二、三冊広げられており、見た目にそぐわず几帳面な字で書かれたノート。

 どうやら近々ある講義の予習をしているらしかった。


 千秋は元々真面目だ。髪を染めたのも、気分転換というだけで陽キャではない。

 ただ、優しく誰にでも平等なその性格が同年代、果てには年下までとりこにするのだ。


 そんな兄に呆れる事もあるが、やはり嫌いにはなれなくて。


 「ごめんなさい」

 「……ん? 何に謝ってんの?」


 首を傾げて問い掛ける千秋の顔は、心底分かっていないようだ。

 天然なのか、それとも本当に気にしていなかったのか。きょとんとした顔のまま、千秋が葵を見つめる。


 「……朝、生意気なこと言ったでしょ。それで兄さんに謝らなきゃって、思って」


 段々と語尾がしりすぼみしてくる。 

 けれど、朝から考えに考えていたことは言えた。後は千秋の返答を待つのみだ。


 「んな事気にしなくてもいいのに。お前のことは俺が一番分かってるんだからさ、大丈夫だって。な?」


 葵の心情を分かってか、再度頭を撫でられる。今度は安心させるように優しく、ゆっくりと。

 緩やかな癖のある髪を撫でてくれるのは、千秋だけだ。何故だか千秋以外の異性──同性もだが──葵の頭を撫でる者はいない。

 まぁそこの所は気にしていない、というのが葵だ。スキンシップを取りたいなら取ればいい。但し、気を許していない者からは全力で拒否するが。


 「そう、ね……。兄さんはそういう人だったって忘れてた」

 「ん?」


 葵が言った小さな呟きは、千秋に聞こえていないようだった。いや、この兄の場合は聞こえていないフリをしているのかもしれないが。


 「……なんでもない! もうすぐ夕飯だから、早く降りてきて。母さんを待たせちゃ怖いって知ってるでしょ?」


 しかし、これ幸いというように葵は千秋の身体を突っぱねた。

 異性ということもあってか、少しらせただけだが。


 「っと……。分かった、今から行くよ」

 「呼びにきた私が怒られるんだからね」


 ダメ押しの言葉も忘れず、半ば逃げるようにドアを開けて階下へ降りる。



 ◆◆◆



 階下へ降りていく音を聞きながら、千秋はガサガサと明日の予習をしていた机の上を片付ける。


 コツリと手に何かが当たった。それは長方形の小さなフォトフレーム。

 その中には小さな頃の葵が写っていた。

 傍には千秋も写っており、兄妹揃って輝かんばかりの笑顔を見せている。


 何かの拍子で倒れてしまったのだろうか。

 その写真を机の上でも見える場所に立て、千秋は独りごちる。


 「本当にお前は──」


 その言葉は誰が聞いているでもなく、空気に溶けて消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る