61枚目 想いから来る謝罪

 それからというもの、薫の毎日は慌ただしくなった。

 父からの事業を引き継ぐため、実家と簪屋とを往復する日々は心労に支障をきたす手前になるほどだ。


 けれど、薫が自分の意思で「跡を継ぐ」と宣言した以上、途中で投げ出す訳にはいかなかった。

 元々、爵位を継ぐ為にと父や家庭教師から教わった数々は頭に入っている。


 問題なのは精神面だ。

 なにぶん簪ひとつ作るまでに時間が掛かり、少なくない数を店頭に並べている。

 薫の作る簪はどれも美しい細工、流行を取り入れたものが多い。だから買い手は老若男女問わず、飛ぶように売れていくのだ。


 手伝いがいれば幾分かマシだろうが、一人で作っているため疲労も馬鹿にならない。

 そんな薫を間近で見ている榊夫妻からも、「人を雇えばどうだ」と二度三度と打診されたが、丁重に断った。


(俺の店に赤の他人を入れるなんて、許すはずないだろう)


 自分以外にもう一人、職人が居てくれれば楽だろう事は、とうにわかっている。けれど、元来の性格からか薫は今の今まで一人で緋ノ龍を切り盛りしている。

 時々、榊夫妻が店番をしてくれるだけで十分にありがたかった。


『……我ながら難儀な性格だよなぁ』


 薫しかいない狭い店内に、ぽそりと呟いた言葉はやけに大きく響いた。


『ま、父さんの為に人肌脱ぐってのは今更か』


 ぽん、と膝を軽く叩いて立ち上がる。

 数日前から同時進行で作っている十本近くの簪が、ようよう出来上がったのだ。

 数本を片手で掴むと、しゃらりと涼やかな音を立てる。


『んじゃ、今日も頑張るかね』


 晴れやかな声音で薫は誰にともなく独り言ちる。

 秋の足音が、すぐ傍まで来ていた。



 ◆◆◆



 それから三年の時が経った。

 薫は二十八となり、同じくして爵位を継いで三年の月日が流れた。

 四年が経つ今も繁盛している緋ノ龍は、連日多忙とは行かないまでも、穏やかな日々が過ぎ去っている。


『さぁさ、そこのお嬢さん。簪を見ていかないかい』


 季節は冬。

 白い息を吐きながらも寒さをものともせず、薫は店先で声を張り上げた。

 今日は年に一度の祭りが開催されており、行き交う人々でごった返している。


『ごめんなさい、急いでいるので……』


 声を掛けられたうら若い娘は、薫の姿を一瞥いちべつするとすぐさま視線を逸らし、まるで逃げるように歩いていった。


『駄目かぁ』


 はは、と少しの落胆が混ざった声で薫は笑う。

 客引きをして断られるのには慣れているが、出店してからこれまで一人も足を止めてくれていない。

 それもこれも、緋ノ龍の景観が関係しているととうにわかっていた。

 たった数日で終わる祭りに金を掛けたくなかったし、他のことで出費がかさむと制作費も馬鹿にならない。


(こういうとこは坂城さん達に感化されたのかもなぁ)


 手慰みにしていた煙管きせるに葉を入れ、火を付ける。

 すうっと肺に吸い込むと、ほんの少し気持ちがまぎれた。


 薫は未だ坂城夫妻の所で居候している。

 好きなだけ居ていい、という厚意に随分と甘えている節はあるが、侯爵としての責務もあるため近々荷物をまとめて屋敷へ帰ることになるだろう。


 四年ほど世話になった恩があるから、坂城夫妻へ心ばかりの贈り物をしよう。

 そう密かに薫が画策していた時だ。そろりと店を覗こうとしている影があったのは。

 どうやら椿の簪が気になるらしかった。


『お嬢さん、それが気になるのか?』

『え』


 薫がそっと声を掛けると、若い娘はゆっくりと簪に向けていた瞳を上げた。

 黒目がちな大きな瞳を、ぱちくりと瞬かせている。

 きっと自分が声を掛けられていると気付いていないのだろう。


『あ、はい……。お幾らですか?』


 娘は慌てたように店の敷地へ入ると、たもとからがま口を取り出した。

 不躾ぶしつけに店の前に立っていたから、怒られると思ったのだろうか。

 弟妹たちと歳の頃は同じか、それよりも年下か。

 どちらにしろ、小動物のようで可愛らしい女人だと思った。


『五銭だよ』


 そんな娘に、無意識のうちに口角が上がる。

 はらりと落ちてくる前髪を掻き上げつつ薫がそう言うと、娘はしばらくがま口の中身と店の前ののぼりとを交互に見た。


『すみません、今は持ち合わせがないので』


 申し訳なさそうに娘が微笑み、きびすを返そうとする。

 やっと来た客を逃がすわけにはいかなかった。


『あぁ、なら持っていきな』


 焦りからか、そんな言葉がさらりと口をついて出る。


(……何を言ってるんだ、俺は!)


 自分で言ったことだが、ただで物を差し上げるわけにもいかない。

 そう頭ではわかっていた。こちらとしても商売だ、何を言っているんだ、と心の中で正論が渦巻く。


『そんな、大丈夫ですから!』


 やはり娘は抗議する。

 若い見かけによらず、しっかりとした娘らしかった。


『いいや、きっとお嬢さんに似合うものだ。それに、こいつもあんたにしてもらえたら喜ぶだろうよ』


 けれど、一度「持っていけ」と言った手前、もう後には退けない。

 娘が一度で言った通りにしてくれたら、どんなに良かったことか。


『いえ、後日お代を持ってくるので……』


 薫がどうしようか頭を回転させている間も、娘はやんわりと否定する。


(はぁ、疲労が溜まってるみたいだな……。どうするのが正解か)


 溜め息を吐きたくなるのをぐっと堪え、薫はちらりと娘の全体を見る。

 それなりに良い着物に身を包み、小さな風呂敷を抱えているあたり、どこかの商家か町人の娘だろう。

 今は金が無いと言っていたが、後日であればお代を持ってくるという。


 ただ、今日の祭りはあと数日で終わる。

 娘がその間に来てくれる確証はなかった。


『そうだなぁ……こうするのはどうだ。お嬢さんが俺の店に来てくれること。そうしたらいいだろう? お嬢さんの言う通り金を貰うから』


 そうしていかにも「降参だ」というふうに、両手を顔の前まで上げる。


『で、では後日伺います』


 薫の言葉に満足したのか、百面相しつつも娘は今度こそ踵を返す。


『そうだ、言い忘れてた』


 そんな娘を、薫は努めて冷静に呼び止めた。

 当たり前だが店の場所を教えていなければ、たどり着くことは出来ないのだ。

 座っていた椅子から立ち上がり、娘のほど近くまで足を進める。


『ここから店まですぐだから。──饅頭屋があるだろう? あそこを右に曲がってまっすぐ行けば俺の店だ』


 わかったか、というように娘へ目線を下げると、薫は目を僅かに見開いた。


(こりゃあ……)


 本当に小動物みたいじゃないか、と心の中で呟きを落とす。

 かすかに震えつつも身構えるさまは、捕食される前の小動物のようで被虐心に駆られた。


『そんなに怯えないでくれ。お嬢さんが来るのを待ってる』


 怯える娘を安心させるように、薫はにこりと微笑した。



 ◆◆◆



 そこまでが薫と美和──今世で兄妹となった、千秋と葵の出会いだった。

 今思えば、どこで間違っていたのだろう。

 そんなことを千秋は夢想する。


 過ぎ去ってしまった過去は、もう戻らないのに。

 あの時やってしまった全てが、許されるとも限らないのに。


「葵──ごめんな」


 心からの謝罪を、千秋は言葉に乗せる。

 きっと葵は、信じられないものを見る目で千秋を見つめているだろう。


 昔から表情の分かりやすい子だった。

 ころころと変わる顔は、時として千秋の自尊心をさいなむほどだった。

 それでも、千秋にとって可愛い妹であることは事実なのだ。


(俺は……)


 千秋はぎゅうと手の平に爪を食い込ませる。

 自身に与える遅い罰とでもいうかのように。


(最低な奴だ)


 伏せたまぶたを震わせ、葵の言葉をじっと待つ。どんな罵詈雑言ばりぞうごんでも受け入れる覚悟だ。

 葵が口を開くまで、部屋に痛いほどの沈黙が響いた。

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